.第二十節「波紋」 | 返信 |
【Writer:森村ゆうり】 本来なら昼の光が差し込んでくるはずの窓という窓には暗幕が張られ、第一体育館はただ一ヶ所を除いては暗く静かだった。人々が息を殺して見詰める先には、明るく照らし出された舞台があった。 引き込まれる。 これが中学生が演じている芝居なのだろうか。 立原美咲は、自分が副担任をしている二年一組の合唱が終わった後、続けて発表される二年三組の演劇を鑑賞していた。 芝居が始まって十分もしないうちに、会場の雰囲気がガラリと変わるのを彼女は肌で感じた。 もちろん、二年一組の合唱にも場内は惜しみない拍手と賛嘆の視線をくれた。美しいハーモニーはどこかの少年少女合唱団と言っても過言ではないできだったと、生徒たちを讃めたい気持ちでいっぱいにもなった。でも、今、目の前で演じられている芝居には、それとはまた別の次元で観客をその世界へと誘っていく力があった。 演技自体は、中学生の域を越えたものではない。芝居などほとんどやったことのない生徒たちが必死で演じている姿があるだけなのだが、立原を含めた観客全員が息を殺し、展開を見守っている。 脚本と演出は桜井のぞみという話だ。 暗転されたステージにピンスポットが一つ、また一つとあたり、そこに立つ四人の主人公たちを照らし出す。荒涼とした未来の世界を彼らは語る。 『砂塵で霞む高層ビルの残骸、紫外線をものともせず成長し続ける大きな蔦の葉』 『人は植物の様に簡単にこの世界に順応することは出来ない』 絶望的な未来の描写の語りで幕を開けた「イヴのおとしもの」という芝居は、未来からタイムスリップしてきた主人公達が崩壊への危機に瀕した地球を救うため、キーパーソンであるイブを探して現代を旅する物語だった。 『行こう! おれたちの過去へ』 『もちろん!』 『はい!』 『うん!』 彼らの旅立ちの台詞が終わると再びステージは暗転して、ステージの上の世界は現在へと変わる。 未来世界の環境汚染やタイムスリップと言った話は、ありがちで使い古されたもので、中学生が選ぶ題材としても珍しいものではない。 天原祭のプログラムに印刷された劇の紹介文を読んだとき立原はそんな感想をもった。成績優秀な転校生・桜井のぞみが脚本を書き下ろしたという話を聞いていなければ、こうしてクラス発表が終わった後、居残ってまで観劇する気になったかどうか定かではない。 むしろ、敬遠していたかもしれないくらいだ。中学生の知りえる情報で作られたそうした未来世界が、立原の持つ理科教師としての知識を刺激して、劇自体を楽しむことより浅い知識の部分を補う説明を生徒達にしたくなるのが目に見えたからだ。 立原は、桜井のぞみの書いた脚本がどうしても気になった。郷田会長が自分と菅原をわざわざ呼びだしてまで、力になってやるように言った彼ら…… 見るべきだと思った。 そして、今、舞台で演じられている世界は客席までを呑み込むような存在感をもって立原を引き込む。 場面は進み、明るいステージの上で彼らが探しているものは、希望。 旅は、多くの人に出会いながら進んでいく。 彼らは連呼する。 この世界の美しさを。 それを破壊しはじめている原因の一つ一つを巡りながら。 立原は、ふいに胸が苦しくなるほどの切なさを覚える。重い責任を担いながら懸命に進む彼らの姿は、日頃、同じ年代の生徒に接している彼女にはあまりにも健気に映った。そこで演じられているものがあたかも現実の出来事であるかのような錯覚が襲う。 芝居はなおも進んでいく。 探せば探すほどに、遠ざかっている気さえする当てどない旅に焦る少年たち。そこへ現れたもう一人の幼い少年は、未来からやって来たと語る。 その少年が銀色の小さな箱を取り出して言うのだ。 『これはイヴのおとしものだよ。僕がみつけた大切な宝物。でも僕ではこの箱は開かないんだ』 『私たちの誰かなら開けられるかもしれないのよ。どうか、それを私たちに……』 どうしてもイヴ探しの手がかりが欲しい少年たちは、その箱を彼から譲ってもらうために、少年が口にする滑稽な要求の全てを受け入れていく。 鬼ごっこに始まり、最後にはダンスを披露する少年たち。 箱の中には希望が詰まっていると信じて。 そんな彼らの姿を見ながら、箱を持った幼い少年は笑っている。本当にただ楽しそうに笑っているのだ。 『そろそろ時間だから、これはここに置いていくよ』 笑っていた少年が唐突に言った。 大事そうに抱えてていた箱がステージの上にぽつんと置かれた所で、全ての照明が消されて暗転する。 そして再びピンスポットがステージの中央を照らした。小さな銀色の箱が、何の変哲もないテーブルの上に乗せられている。舞台の上に人の気配はない。 立原の心臓がドクンドクンとスピードを上げながら動いている。 何かが違っていた。 スピーカーを使って最後の言葉が語られる。 『さあ、開こう。箱の中にある未来を……』 『君が……』 最後の台詞はそこで唐突に途切れた。 キィーンというハウリングの音が体育館に響く。耳障りなその音はどんどん大きくなっていくばかりで、収まる気配をみせない。 立原は、椅子から立ち上がる。簡単な放送機材のトラブルなら自分でもなんとか処置できるかもしれないと考えてのことだ。普通なら誰かが、音量の調節やマイクの位置を直し事態を収拾するはずである。 その試行錯誤の間、音は一定の周波数で鳴り続けることはなく大きくなったり、小さくなったりするのだが、その変化も聞き取れない。 音は鳴り続けるだけだ。 まだ、観客たちはじっと座って、音が収まるのを待っている。あまり時間が経てば、パニック状態に陥る可能性も考えられる。暗く閉ざされた空間に多くの人間がひしめき合っているのだ。均衡は簡単に崩れる。 立原の座っていた教職員席は、体育館の右端に細長く二列で設えられていて、舞台裏へ入る扉もステージの右端にあって、何かの時にはすぐに教職員が手助けできる形に設営されていた。 慌てたそぶりを見せることなく、自然な動作で立原はステージの方へと歩き出した。 「立原先生」 扉の前で声をかけられた。観客を刺激しないために小さく押し殺された声ではあったが、その主はすぐに知れた。 「菅原先生」 「これはおかしいですよね。立原先生。まだ、続いてる」 菅原が言葉を続ける。 「普通ではないと思います。中に担任が居るはずなんですけど……」 立原は言葉を最後まで紡ぐことができなかった。 キィーン…… 音は耳障りを通り越したレベルまで跳ね上がる。 ぴりり、ぴりりっ。 窓ガラスが震える音。 ぱりんっ。 ぱりんっ。 ぱりんっ。 立て続けにガラスの割れる音が響いた。 ここへ来て、静かに事態を見守っていた観客達にも動揺が走る。ざわざわとした言葉の波が館内に広がっていく。 急がなければ……。 立原は薄暗い館内を見渡した。 どうやら菅原以外の教職員たちも動きはじめたらしく、さりげなく動き回る人影が幾つか確認できた。これで観客の誘導の心配はない。 菅原が先に舞台裏へ続く扉へ消えて行った。 立原もそれに続こうとした時、今度はハウリングの音でもガラスの割れる音でもない全く別の音が聞こえた。 それは正確に言えば音ではなく、声だ。 『ボク……帰…るよ』 『よ……たね』 『あり…と…』 『い……よ。じゃ…』 『……』 誰かが会話をしている。 『ありがとう。イブ』 立原は思わず立ち止まって、館内を振り返り確認する。暗幕で作られた闇にも慣れてきた目で客の様子を見た。 今の声は、自分の錯覚なのか。それともマイクの調子が直って再開された芝居の台詞の一部なのか。 客の様子はまちまちだった。立原と同じように呆然と立ち尽くし不思議そうにしている者、先ほどと変わらず隣の席の人と何かしら会話している者。 「なんか、聞こえなかった?」 ステージ近くの席に座っていた生徒の声が聞こえた。 「えーっ、キィーンって音とガラス割れる音のこと?」 「違うよぅ。人の声、でも、さっきのお芝居に出てた人の声じゃないと思う……」 「なに、それ。ちょー、やばくない?」 立原にも声が聞こえた。 聞き覚えがあるような気もする声。 「でも、劇に出ていた子の声じゃない気がするけど……」 そして、唐突に事態は終息する。 耳が痛くなるほどだったハウリングの音は消え、それと同時に振動も収まった。 「なんだったのよ……」 立原が呟いた所へ館内にアナウンスが流れる。 『お静かに願います。お静かに願います』 菅原の声だった。 『原因等は不明ですが、放送機材のトラブルで窓ガラスが破損している模様です。幸い、ガラスは飛び散ってはいませんので、観客の皆さんは、一旦、席につき職員の誘導に従って、静かに退場して下さい』 『なお、この後に予定されておりましたステージ発表のプログラムは、まことに申し訳ございませんが中止とさせていただきます』 菅原のアナウンスに従って観客は着席し、放送に耳を傾けている。 残りのステージ発表は職員有志によるバンド演奏とブラスバンド部の演奏だけである。中止になったとしてもまた発表の機会は作ることができるだろう。 『天原祭自体は引き続き執り行いますので、引き続きお楽しみ下さい』 放送が終わると、職員達は四つある出入り口全てを開放し、近い席の人たちから外へ出るように誘導を始めた。 立原は舞台裏へ入っていく。 生徒や客を避難させて別な場所に待機させる必要はないのだろうか。 そんな疑問を持ちながら奥へ入っていくと、そこには菅原と郷田の二人と数名の生徒だけが残っていた。 「郷田会長……。今のは会長の指示ですか?」 立原が聞く。 「そうです。事件性はありませんから、立原先生も御心配なさらずに」 郷田は笑顔で立原に言った。 「干渉要因が集まり過ぎた結果かな……」 立原の背後で、一人の生徒が呟いたのが聞こえた。 「津川くん…?」 二年一組の生徒である津川光輝だった。彼を囲むようにして、数名の生徒がぼそぼそと話をしているようだ。 「立原先生、聞いてますか?」 菅原が言う。 「えっ、あ、いえ。もう一度お願いします」 「僕がここに入ってきた時には、もうこの状態だったので、正確なところは分からないんですが、放送機材の簡単な点検をして、他の職員には窓ガラスの破損状態の確認をしてもうということになりました」 「責任はワシが持つ。大事には至らないはずだ。そうだね。君たち」 郷田が立原の後ろにいる生徒に問いただす。 「はい。これ以上のことが今日起こる可能性は低いはずです」 またしても津川光輝だった。 「納得いきません!」 立原は郷田に食ってかかった。 「もっともな意見だ。立原先生」 「僕も納得はしていませんよ。ただ、納得していなくても、点検の類は早いほうがいい。今、すぐやるべきことをやりましょう」 菅原が立原をなだめるように言った。 「分かりました。でも、郷田会長、いずれきっちり説明していただきますよ。君たちもそのつもりで」 立原は後ろに集まっている生徒たちにもそう言って、機材の点検のためさらに奥の部屋へ歩き始める。 「やはりここで間違いなかったと言うことだろ」 また、津川光輝の声が立原の耳に届いた。彼女は振り返り、もう一度そこにいる生徒の顔を確認する。転校生の集団がそこにはあった。 立原の脳裏に、今、観たばかりの二年三組の劇の一場面が蘇る。過去へと旅立つ少年たちの凛とした姿。 まさかね。そんな非科学的なこと……。 彼女は自分の馬鹿げた考えを振り払うために、職員として今やるべきことに取り掛かったのだった。 森村ゆうり
2002/03/18月02:04 [20] |