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.第八節「妖剣・胡蝶陣」 | 返信 ▲ ▽ |
【Writer:大神 陣矢】 「行くのか」 そう声をかけられ、足を止めて振り向いたのは、少壮の若武者だった。 無骨な面体に憂愁の色をたたえた巨漢の姿をみとめ、ふ、と口元を緩める。 「ああ。もう、この地に用はないゆえ」 「勿体ないことをする。貴様ほどの遣い手なら、その腕だけでも身を立てられように」 「措け、佐平次。御手前の剛力にはおよばぬよ」 「それはさもあろうが、貴様の太刀筋……あれは神業よ。咒樂斎の『胡蝶陣』なからずんば、彼奴を討つこともまたかなわなかったろう」 過分な賛辞だ、と笑って、咒樂斎と呼ばれた若者はやや声を落とす。 「剣術使いの時代はほどなく終わる。いや、もうとうに終わってはいるのだけれど。いずれは御手前も、剣を捨てねばならぬ日が来よう。……その日までに、先の思案を忘れぬことだ」 「莫迦な。俺は……どうあれ、剣のみで渡って見せる」 「まあ……良いさ。御手前は御手前の道を行け。私もそうするゆえ」 「そうか……」 佐平次はさびしげにつぶやいたものの、じきに気を取り直したように、 「それなら……最後に、貴様の妙技を見せてくれ」 「タダで?」 「歌を贈ろう」 はは、と咒樂斎は相好をくずした。 「先生の送辞を頂けるとは光栄」 「風流を知らぬ貴様には惜しいがな」 「げにも」 ずらり、と抜刀した太刀を下段に構える。…… 「“うつつなき”……」 佐平次が、懐から扇を放る。 「“胡蝶の夢に”……」 さらにもう一枚、二枚と放り上げる。 「“妹(いも)を見て”……」 太刀が、跳ね上がる。 ごう、と一陣の風がうねった。 瞬きひとつ終えたのち、宙をひらひらと舞うそれらはもはや扇にあらず、無数の蝶へと変じていた。 「見事!」 莞爾と破顔した佐平次だが、すぐに瞠目した。 咒樂斎の身が、忽然と失せていたのだ。 「……返歌もなしに去るとは、つくづく、不粋よな」 秋風が蝶の群れを吹き散らし、すべてが視界から失せるまで、佐平次はその場から離れることなく、立ち尽していた。 「……というわけで、けっきょく、ふたりの恋は実らないまま終わるわけなの」 うっとりとした表情をうかべる桜井のぞみに、綾瀬理奈は呆れたような視線を送る。 「ずいぶん長い前振りだったわねぇ〜……ンで? それがどうしたってのよ」 「だから、今度の、お芝居……」 「ああ、演劇ね……」 間近に、文化祭が迫っていた。 2人のクラスは演劇をやることに決まり、のぞみはその脚本を書くことになっているのだ。 そこで郷土の文献などをあさっているうちに、野史に残された『胡蝶陣・久遠咒樂斎』の物語をエピソードを舞台化しよう、ということになったわけである。 史料によれば、久遠咒樂斎は幕末の人で、剣の達人。当時近来にはびこっていた盗賊団を壊滅させ、人々の難儀を救ったと伝えられる。そのとき一五歳で、以後の消息は不明。 「もっと無難なのがいっぱいあるでしょーに……」 「うん、それはそうなんだけど。なんとなく、ピピッと来たんだよね。この人……咒樂斎さんって、風のように現われて、風のように去っていった……なんだか、儚い人」 それに、とのぞみは続ける。 「数えで一五歳だったっていうのも、ポイントかな。それって、要するに現代なら一四歳ってことでしょ?」 なるほど、自分たちと重ね合わせているわけだ、と理奈は合点する、 「まあ、あまり史料としては重要視されていないけどね。でも、ロマンがあるよね……」 「ロマンねぇ」 「うん。こういう強さが、ほしいと思うよね……」 んなことより、あたしたちには優先することがいっぱいあるんだけどねぇ……とぼやきつつも、理奈は話を続ける。 「まいいや……あんたはちゃんと脚本仕上げてよね。あたしはちょっと出てくるし」 「え? どうするの?」 「買い出し。芝居となると、なにかと必要だからね」 「一人で大丈夫?」 「ん、あいつら連れてくから問題なし」 「なるほど」 「んじゃ、がんばってよね」 「うんっ、感動的なラブストーリーに仕上げるから期待してて」 「ラブ……?」 ふと風に当たりたくなって、のぞみは寮の裏手にある木立に足を向けた。 (難しいものね……) 舞台の脚本の件だ。引き受けてはみたものの、思いのほかてこずっていた。 演劇と言う芸術については、十分な知識をもっているつもりだった。わからぬことがあれば、古今東西、いやそれどころか『未来の』演劇にまつわる情報すら参照しうるのだ。 だが、『知っている』ことと、それを『生かす』ことは、おのずと別のことである。 (そういえば……) くだんの久遠咒樂斎にかんする文献の中に、彼が語ったと伝わる述懐があった。 『私はものごとを知ることで、そのものごとを理解したつもりになっていた。しかし、それは驕りであった』というのだ。『歌を知っていても、歌を唄えるとはかぎらぬ』と。 わたしたちのことのようだ、と自嘲気味にのぞみは考える。 これから先、どのように歴史が進んでゆくか、わたしたちは知っている。 だが、それだけだ。 その歴史を覆し、よりよい方向へ導くための手段……それは、現時点では皆目、見当がつかない。 あるいはこのまま、自分たちは何も為せないまま、時は過ぎてしまうのかもしれない……そんなふうに考えてしまうことも、しばしばだった。 ついには、 (いっそ……この時代でなければ良かったのに) 別の時代へ飛ばされていれば、いっそ気楽に過ごせたものを……と、思わないでもない。 そこに至って、のぞみは頭を振った。 (ダメダメ……こんなこと考えてるようじゃ、みんなに迷惑かけるだけ……) そう思い、作業に戻ろうと、歩き出した……その、直後。 「……っ!?」 言いようのない戦慄が、彼女を襲った。 それは、単なる物理的なエネルギーではない、もっと別の気配…… (……まさか……これは……DPT(ディメンジョン・プロパビリティ・テレプレゼンス=時空確率転送機)ッ!?) 彼女が振り向くのと、小規模ながら劇的なエネルギーの渦が巻き起こったのは、ほぼ同時。 次の瞬間には、さきほどまで存在していなかったものが、そこに存在していた。 「あ……」 のぞみは息を呑んだ。 それは、血にまみれた着物姿の、腰に刀を佩いた若者だった。 綾瀬理奈は駈けていた。 ひとつには、買い出しに思いのほか時間がかかってしまったので、急いでいたのがひとつ。 もうひとつは…… (のぞみ……) 別れ際に垣間見せた、彼女の寂しげな表情。 『強さが、ほしい』いう言葉。 時が経つにつれ、それはより大きな比重をもって、理奈の心を占めていた。 チームである四人のなかで、のぞみはもっとも繊細な性格だ。そりゃ、自分や光輝、達矢だって人並みに傷ついたり落ちこんだりもするけれど、のぞみは……何というか、真面目すぎるところがある。 それは美点でもあるが、度が過ぎればマイナスにしかならない。 まさかとは思うが、思いつめたあげく、何らかの形で暴発しないとも限らないのだ。 だから、荷運びは男子ふたりに任せて、こうして帰りを急いでいるというわけだった。 (思い過ごしなら、それでいい……) と、いっそう足を速めようとしたとき。 「そこの娘」 ふいに、凛とした声で呼び止められた。それも、娘、ときた。 急いではいるが、いちおう立ち止まってしまうのも無理からぬところ。 「すみませんけど、あたし……」 急いでるんです、と言いさして、理奈は口を閉ざした。 それは、路地裏から現われた声の主が、あまりにも異質な風体だったからにほかならない。 束ねた長髪、すらりとした体躯、色白の面貌……年のころは理奈と同じかやや上ていどか、なかなかの美少年……いや、美少女? であったが、彼女の言葉を奪ったのはそれが原因ではない。 上下の着物姿。これはまあいい。足に目をやれば草鞋履き。これも、まあなんとか見逃せないこともない。 が。 腰に佩いているのは、あれは、刀……ではないのか? (ゲイシャ!? ……いや、サムライ!?) 理奈が古代(いや、この時代からすれば近世・中世だが)に存在したという特殊な階級の名を思い出すのと、それが二一世紀には存在しえないものである、ということに気づくまでに約1.05秒。そして結論を出すまでにはさらに0.05秒。 結論。こいつは変な奴だ。かかわってはいけない。 視線を反らし、走り去ろうとした彼女の足を止めさせたのは、鯉口を切る音だった。 「頼みがある。聞いてくれるか」 「……人にものを頼む態度じゃないわね」 と毒づきつつも、理奈の視線はわずかにあらわとなった白刃に向けられる。 あれがまがいものだという保証は? いや、たとえ竹光だって、殴られれば痛い。 ここはどうやら、素直が一番らしい。 「服を脱げ」 「ヤだ」 素直撤回。 「案ずるな。タダとは言わぬ……この着物と交換といこう」 「そ、それにしたってねえ! そんな……」 「ふむ……あまりのんびりともしていられないのだがな……この時代、この格好は目立ち過ぎる」 ずんばらり、と抜き放たれた太刀が不気味に光る。重そう。 「ああ……何が悲しくて、二一世紀くんだりまで来て、ゲイシャに追い剥ぎに合わなきゃいけないのっ!?」 ことの理不尽さに、思わず声をあげてしまう。あらためて確認すると、異常すぎる状況だ。 「『二一世紀に来て』……?」 怪訝そうな追い剥ぎゲイシャ。そりゃそうか。 「ああもう、勝手にすりゃいいでしょ! 欲しいなら、こんな制服ぐらい……」 「『DPT』……」 「……へっ?」 いきなり追い剥ぎゲイシャの口からそんな言葉を聞いて、理奈はリボンをほどきかけていた手を止めた。 「『DPT』利用者か?」 「なっ……なんで、知って……っ」 やはりな、とつぶやいて、追い剥ぎゲイシャは刀を収めた。 「あやうく、『同胞』の身包みを剥ぐところだった。赦せ」 「はあ……えっ!? ってことは、あんた……も?」 いかさまさよう、と追い剥ぎゲイシャ……は、もういいか……着物姿の若者は答えた。 「私もまた、時の導きにはぐれた流れ者よ……」 少年は、高千穂涼(たかちほ・りょう)と名乗った。 もっとも、その名はもうずっと使っていないがね、とも付け加えた。 「どうして……?」 のぞみはひとまず、彼をひとけのない体育倉庫に連れ込み、治療に当たっていた。 『関係者』である以上、公的機関を用いるのは問題があったし、何よりこの負傷は怪しまれる。 さほど重傷でもないこともあり、のぞみが自前の医療キットで応急処置を施したのだ。 「それは……ぼくが、敗残者だからさ」 「え……」 涼の話はこうである。…… 彼はのぞみたち同様、DPTで過去に飛んだ若者のひとりだった。 しかし、彼を含むチームはジャンプに失敗、予定よりもはるかな過去に飛ばされてしまった。 『最初』は、どうやら平安時代だったらしい。 「最初って……?」 「ぼくたちは、異なる時代にたどり着いたものの……それでもなんとか、生き延びようと努力していた。その矢先だ……」 到着から数ヶ月後、突如彼らはまた別の時代……おそらくは鎌倉か南北朝時代……へと飛ばされてしまったというのだ。 「まさか……そんなことが!?」 起こったのさ、と自嘲気味に涼。 「おそらくぼくらは、体質……というよりも、存在そのものの『確率性』が変異してしまったのだろう。つまり、この時代に存在する確率が、つねに100%にならないということだ」 そのためか、周期的にジャンプを繰り返し、いくつもの時代を行ったり来たりしているのだという。 「幸いというべきか、その振り幅は数千年単位に収まっているようだがね……」 二六世紀からやってきたのぞみにとってすら、にわかには信じ難い話だった。 事実だとすれば、それは……想像するだに、苛酷なことだ。 「大変ですね」 などという慰めの言葉も、かけられない。 「そういえば……他のチームの方は……」 涼は押し黙ったまま、答えない。 「あ……すみません、わたし……」 「いや……いいんだ。ある者は戦争に巻き込まれ、あるいは疫病に倒れ、……自ら死を望んだ者もいた」 ぼくは運よく……いや、運悪く、生き延びているだけさ、と涼は弱々しく笑った。 「そんな……あの! もしかしたら、わたしたちが、力になれるかも……」 ムダだよ、と涼は手を振った。 「ぼくは、このまま……ずっとこのままなんだ。そして……すべては、無に還る」 「でも、そんなこと、わからない……」 「わかるのさ」 「え……」 「わかってるんだよ。ぼくは……」 涼の目に、暗い炎が宿る。 「……ぼくは、人類の最期を、見てきたのだから」 「……と、まあ、かいつまんで言えばそういうことだ」 御子芝樹(みこしば・いつき)と名乗った少女の話を聞き終えた理奈たちは、うう、と唸った。 終わりなきジャンプ。繰り返される時間移動。 しかも、いつ失敗し、量子の海に還るかもわからないのだ。 あらためて、自分たちの幸運さを痛感する。 (それにしたって……追い剥ぎはないわよね) (追い剥ぎはな〜、ちょっとな〜) (ふふ……追い剥ぎとは穏やかでないが……それはそれで……) 「……何か言いたそうだな」 いえそんなことは、と三人は口をそろえた。 「ま、苦労ではあったが……おかげでさまざまな体験もできた。悪いことばかりではないさ。こいつの遣い方などは、知りたくもなかったが」 この人は、と理奈は痛感した。……強い。 「ところで……『私だけ』か?」 「え?」 「私のような境遇の人間を、他に知っているか? ということだ」 「いや……あなただけですが」 「ふむ……」 樹は腕を組み、顔をしかめた。 「まずいな」 「何がです……?」 「私には『連れ』がいるのでね……」 何度目のジャンプかは憶えてもいないが、と前置きして、涼は話しはじめた。 「あれは、二六世紀よりもやや後……もはや滅びの日を間近に控えた人類は、荒廃した地球に還り、終わりの日を待ちうけていた。しかし彼らは、押しつぶされそうな絶望に耐え切れず……ついには……みずから……」 「そ、そんなっ……」 「わかるだろう? ぼくやきみたちが、どれだけ手を尽くそうが……ムダなんだよ。人類は滅びる。だったら……ぼくらが何かをなしたところで何になる?」 「それ……は……」 だから、と涼は続けた。 「ぼくは、人生を楽しむことに決めたのさ。……どうせ、明日とも知れない命だ。辛いことは考えず、楽しく生きたほうがいいじゃないか?」 のぞみは、答えられなかった。 「なあ、ぼくと行かないか? 無為な使命なんかに、残された時間を費やすことはない……どうせなら、人生を謳歌しないか?」 「…………」 涼の差し伸べた手に、のぞみの手が、重なり…… 「……ぐっ!」 鈍い音。涼が苦痛の表情とともに手を引く。 足元には、扇…… 「それくらいにしておけ、リーダー」 涼のまなじりに、ドス黒い憎悪の色が映える。 「……御子芝ッ!!」 駈けつけた理奈たちが見たのは。のぞみと彼女に寄り添う着物姿の優男、 そしてそこへ、抜刀した樹がゆるゆると間合いを詰めてゆく。 「のぞみ!? そいつから離れてっ!」 「え……えっ!?」 と、電光石火の挙動でのぞみの背後に回った涼が、彼女の喉元に小太刀を突きつけた。 「のぞみっ!? ちょっ……何やってんのよあんたっ!?」 「動くなっ……悪いね、のぞみちゃん……きみを利用して」 呆れたような表情で、樹がいう。 「相変わらず、つまらぬ真似をするな。そんなに、小悪党呼ばわりされたいのか」 「好きに言っていろっ……さあ、のぞみちゃん……行こうか? 来てくれるね?」 「わ……っ、わたし……は……」 小刻みに震える、のぞみの肩。 「のぞみとやら」 「!」 丹田から放たれた、凛然たる声がのぞみを打つ。 「そやつから何を吹きこまれたかは、だいたい見当がついている。もし、貴様が『楽に生きたい』のなら、そやつに従うのもよかろう」 だが、と樹は両の眉を跳ね上げた。 「『楽しく生きる』ことと『楽に生きる』ことは、同じではないぞッ」 「っ…………」 「運命から逃げるなら、すべてはムダだと信じて投げ出すなら、それもよかろう……だが、私は……運命とは計り知れぬものと信じている。われらが見た『人類の最期』も……あれがすべての結末とは限らぬのだから」まなじりを決する樹。 「ゆえに私は逃げはしない。いかに苛酷なさだめであろうと、みずからの手で切り開き、悔いなく生きぬき……天運尽きれば、倒れるのみだ!」 「わ……」のぞみの肩の震えが、止まる。 「わたしは……っ!!」 のぞみの頬を、風が撫でた。 「ぎゃ……っ!!」 駆け出しかけた涼が、扇で撃たれ、悶絶していた。 「奴はあの通り……人々に破滅のビジョン、破局の恐怖を語ることで、現世の利益を無為なものと感じさせるのが常套手段でね……ペテン師としては上々だ」 「はぁ……」 涼を捕縛したのち、一同は学園長室でことの次第を報告がてら、樹の話に耳を傾けていた。 「先の時代でも,同じような真似をしていたっけな……幕末の話だが」 「え……!? ひょっとして……それって……そのときの樹さんの名前って」 「あぁ? 『久遠咒樂斎』と名乗っていたよ」 「……っ!」 「それで」と、郷田がいった。 「これからどうするのだね?」 「ま、この時代に辿り着けたのも何かの縁だろう。しばらく、御手前たちの世話になるとしよう」 「はぁ……」 「あの……」 「うん? ……ああ、貴様……きみか。何か用か?」 「すみません、その……わたし……」 「……気にするな。高千穂のあれは芸のようなものだ。惑わされても、恥とはいえぬ」 「いえ……でも、たしかに、わたしも……迷ってたんです。だから……」 「今は……どうだ」 「…………」 ふ、とほほ笑んで、樹は振り返った。その視線に、返事は聞くまでもないと悟ったがゆえに。 「あのっ!」 「まだあるのか」 「あの、……佐平次さんへの、返歌は?」 樹は立ち止まり……そして、いった。 「『“交わす邯鄲 探すでもなく”……』」 「意味は……?」 「いっしょに使う枕を、探す気はないってことさ」 片手を上げて立ち去る樹を見送りながら、のぞみは、 『脚本、書き直しかな……』 そう、考えていた。 大神 陣矢
2001/12/24月11:57 [8] |
.第七節「運命の選択」 | 返信 △ ▽ |
【Writer:諌山 裕】 厚い強化プラスチック窓を通した漆黒の視界の中、白地に青と茶のマーブル模様の球体が横切る。 地球だ――。 それはリング型コロニーの自転に合わせて、見かけ上の運動をしている。地球と月との重力の平衡点――ラグランジュポイントから見る地球は、頼りないほどに小さく見える。 多様な生命を宿した青い地球、といわれていたのは過去のこと。極地の氷が溶けて海面が上昇し、面積を広げた海。海に浸食された大陸は、大半の緑を失って褐色の地肌をむき出しにしていた。 陸地でつながっていた大陸は孤立し、勢力を広げた海からは大量の水蒸気が立ち上り、巨大な雲の塊を作りだしている。見かけは穏やかだが、渦を巻いた雲の下は嵐になっているはずだ。いまや人類の故郷は“白い地球”と呼ばれていた。 「アンドルー! ここにいたのか」 目を細めて白い地球を見あげていたアンドルーは、想いを現実に引き戻された。彼はサラサラの金髪を掻き上げる仕草をして、うしろを振り返った。 「ゲーリー、でかい声で呼ぶな」 駆けよるゲーリー・ブッシュは、肉づきのいい体を弾ませていた。頭にはトレードマークである、ニューヨークヤンキースの野球帽のレプリカをかぶっている。 ゲーリーのあとから、ふたりの少女がゆっくりと歩きながら続いた。少女たちは、ときおり笑いながら小声で会話をしている。 快活な笑い声をあげるのは、アフリカ系アメリカ人のジャネット・リーガン。カールした赤毛と肌の露出の多い服装で、はち切れそうなプロポーションが見るものの目を引く。 一方のキャサリン・シンクレアは、華奢な体に腰まである長い金髪がキラキラと輝き、清楚な妖精のようだ。 ふたりの少女はまったく正反対のイメージだったが、相性はよかった。 窓際に立つアンドルーを中心にして、彼らは向きあった。四人とも一四歳になったばかりだった。 「会議を途中で抜けだしちまって、いいのか? 退屈なのはわかるけどよ」 ゲーリーは肩をすくめていった。 彼らはアジア・セクター管轄のコロニーで行われている、DPT国際会議に参加していた。 「結論は出たのか? オレのいう結論とは、オレたち、アメリカ・セクターに有益な結論ということだが」 アンドルーは片眉をあげ、首を傾げて仲間を見る。 ゲーリーは首を振った。 「いいや。議論は平行線だ。まだすったもんだやってるよ。アジア・セクターが強気なんだよ。奴らが持ってる情報を出し渋ってる。時空確率転送機(DPT)テクノロジーでは、アジア・セクターが半歩先いってるからな。交渉の切り札を手放したくないのさ」 「ふん。そんなことだろうと思った。どうせ、しつこく月の領有権の復活を要求してるんだろう? 先のシム戦争で勝ったのはオレたちなんだ。取り返したければ、正々堂々と宣戦布告しろっての」 「同感だぜ。紛争解決で現実の戦争する代わりに、シミュレーションで戦争してんだ。あいつら勝てる見込みがないから、今回の会議で交渉条件に出してる」 「じゃ、やるのね?」 ジャネットが口をはさんだ。 アンドルーは口の端を持ちあげる。 「そうだ。決行する。準備はいいか?」 「もちろん」ゲーリーは自分の胸を叩いた。 「はい」キャサリンは控えめにコクリとうなづいた。 彼らは行動を開始した。 けたたましい警報が鳴り響いた。 同時にコンピュータボイスが警告を発する。 《侵入者警報! シグマブロックに不正なアクセスがあります。警告! 警告! システムがハッキングされています》 「キャサリン! 早くドアを開けろ!」 アンドルーは怒鳴った。彼の手には小型の麻痺銃(マイオトロン・ガン)が握られ、足下には倒れた人間がいた。麻痺銃から放たれるビーム状の放電は、運動神経と視床下部に作用し、筋肉を麻痺させるのである。死にいたることはないが、数時間は身動きできなくなる。 キャサリンは歯を食いしばって意識を集中していた。彼女の長い金髪の一部が、セキュリティパネルのデータノードへと伸びている。それは髪の毛に偽装した、神経インプラントのケーブルなのだ。彼女はシステムにアクセスして、厳重なセキュリティのかかったドアを開けようとしていた。 彼女は量子コンピュータの支配する量子空間へと、“意識”を滑りこませていく。処理スピードでは、人間の脳は量子コンピュータにはかなわない。しかし予測不能な人間の意識の方が、優位な場合もある。彼女は押しよせる津波のようなデータ流を、波に乗るサーフィンの要領でかわしながら、目的のノードへと近づいていく。 彼女に迫る波は、悪魔のような形相に変貌して襲いかかる。悲鳴をあげそうになる彼女は、必死に攻撃を回避しながら、ポイントを目指した。 「キャサリン!」 遠くからアンドルーの声がきこえる。彼の声は彼女を元気づけたが、システムの悪魔は彼女を四方から追いつめようとしていた。 「あと、もう少し!」 彼女は意識の擬体の手を伸ばす。感覚的にポイントはほんの数センチ先だった。だが、なかなか届かない。 ドロドロとした粘着質の液体が、彼女の髪に絡みつき、自由を奪おうとしていた。液体はさらに触手を伸ばして、彼女の体にまとわりつく。 量子空間で孤軍奮闘するキャサリンは、苦しげにあえいだ。彼女の意識の表現である擬体は、衣服をはぎ取られていく。それは彼女の防壁であり、裸にされることは無防備になることを意味していた。 キャサリンは意を決して、自ら衣服を脱ぎ捨てて裸になった。 一瞬、彼女の戒めがゆるんだ。すかさず、セキュリティノードに手を触れ、破壊ウイルスを注入した。 次の瞬間――彼女は触手に絡みつかれていた。 「キァアアア――――!!」 彼女は悲鳴とともに昏倒した。 しかし、ドアは開いた。 アンドルーは気絶したキャサリンを片手で抱きかかえて、中に転がり込む。 室内には怯えた顔をした研究者が数人いた。アンドルーはためらうことなく、麻痺銃を撃った。さらにゲーリーは部屋の奥へと駆けこんで銃を乱射し、ストロボのような閃光が何度も光った。閃光が消えると、ゲーリーは手招きする。 「ゲーリー! ドアをロックしろ!」 「おおっ!!」 ゲーリーは閉じたドアの制御系に、麻痺銃の放電を浴びせた。火花が飛び散って、ドアの機能は焼き切れて壊れた。 「ジャネット! ここのシステムをメインフレームから隔離するんだ!」 「あいよ!」 アンドルーはキャサリンを抱きかかえて、占拠したコントロールルームへとはいる。そして彼女を椅子に座らせた。 警報はよりいっそう大きな音で反響していた。 「このうるさい警報を止めろ!」 突然、警報は沈黙した。 「キャサリンの放ったウイルスが、セキュリティのレベル2まで侵食した! システムは混乱しているぞ」 ゲーリーは拳を振った。 「まだ安心するな。ジャネット、DPTのシステムは隔離したか?」 「手こずってるわ! あたしひとりの手には負えない!」 「代われ! オレがやる!」 駆けよろうとしたアンドルーの手に、キャサリンの手が触れて引き留めた。 「アンドルー……わたしが……」 声は弱々しかったが、強い意志が感じられた。 「できるのか? かなりダメージを受けたのだろう?」 「あなたが……守って……」 キャサリンは微笑んだ。 「いいだろう。オレが盾になる」 アンドルーはキャサリンの座った椅子を、アーチ型のコンソールの前まで押した。コンソールには色分けされたタッチパネルが並び、左右に直径二五センチほどの黒い窪みがある。 キャサリンは両手をそれぞれの黒い円の中に置く。背後からアンドルーも手を伸ばし、彼女の手の上に重ねた。 すると、黒い円は液体のように波打ち、ふたりの手を包みこんでいく。やがてすっぽりと黒い膜に包まれた手は、コンソールから生えているかのようになった。 ふたりの体はインターフェイスとなっているナノマシンを介して、神経系と量子コンピュータとが有機的に直結されたのだ。 キャサリンとアンドルーは、量子空間へと意識をシフトさせた。 量子コンピュータが神として君臨する、量子空間――。 擬体化したキャサリンとアンドルーは、灯りで彩られた夜の街の上空に浮かんでいた。街のように見えるものは、量子マトリックスのグリッドであり、脳が視覚的に作りだしている幻影である。 「キャサ……」 アンドルーは彼女を見て、口ごもった。 キャサリンは裸だったのだ。 彼女はいたずらっぽい笑みを彼に向けた。 「さっきの接触で、わたしの防壁ははぎ取られてしまったの。ちゃんと守ってね、アンドルー」 「ああ……、わかってるよ。オレのそばを離れるな」 彼女は彼のうしろにつき、彼の手を握った。アンドルーは一瞬躊躇したが、彼女の手を握り返した。 「あっち」 彼の肩越しにキャサリンは指さした。 ふたりは飛んだ。 量子空間では擬似的に物理法則が適用されて、日常的な感覚を反映させている。しかし、それもユーザーの意識しだいである。無視しようと思えば、物理法則的な観念は省略できる。 光の街はところどころで灯りが消え、虫食いのように暗くなっていた。ウイルスによって破壊されたグリッドだ。侵食された部分との境界線では、光の明滅が起こっていた。侵食をくい止めようとしている免疫システムとの攻防が繰り広げられているのだ。 「あそこよ」 高速で飛び続けて、キャサリンの指示で停止したときには、ピタリと静止した。慣性は省略したのだ。 ふたりの前には、巨大な黒いピラミッドがそびえている。距離の表現は無意味ではあるが、擬体の比較からいえば一辺が数キロメートルはある感覚だ。それがシステムのコアである。 グリッド面に着地すると、キャサリンは作業に取りかかる。アンドルーは彼女を見守りながら、あたりを警戒する。 彼女はどこからともなくナイフを取りだす。そして、刃を手のひらに当てて、スッと切った。切った手を握りしめて、血をしたたらせる。 鮮血――それは彼女のデータの表現だ――は、黒い地面に血溜まりを作っていく。 彼女はつぶやく。 「いまわたしがあなた達を送り出すのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように純真であれ。人々に気をゆるすな。あなた達を裁判所に引き渡し、礼拝堂で鞭打つからである。また、あなた達は私の弟子であるがゆえに、総督や王の前に引き出されるであろう。これは、その人たちと異教人とに福音を証する機会を与えられるためである」 キャサリンはマタイの福音書、第十章十六節から十八節の言葉をいった。言葉そのものにさしたる意味はないが、起動させるプログラムに暗号化されたパラメータと実行命令を与えたのだ。言い換えるならば呪文のようなものだ 血は意志あるもののように脈動し、渦を巻きながら、彼女を中心に広がった。それはある図形を形取った。 円を四つに分割した図形――魔法陣である。 分割された領域には、それぞれヘブライ語で文字が書かれている。東に守護天使ラファエル、南に守護天使ミカエル、西に守護天使ガブリエル、北に守護天使ウリエル。 魔法陣はさらに大きく成長し、巨大ピラミッドをその円の中に収めるほどになった。 キャサリンの手からは血が流れ続けていた。実際に血が流れているわけではないが、彼女の顔は青ざめていく。表情には苦痛が現れていた。 よろめく彼女の元へ、アンドルーは駆けよった。 「大丈夫か?」 彼はキャサリンの肩を抱いた。 「こんなに大きな魔法陣は初めてだから……。でも、なんとかなると思う。うしろから倒れないように支えてて」 彼は彼女のうしろにまわり、両手を彼女の腰に当てて支える。擬体とはいえ、彼女の裸体に触れていることで、心持ち心臓が高鳴った。 《アンドルー! 急いでくれ! やつらがドアをレーザーカッターで開けようとしている!》 外からゲーリーの声がきこえた。 「もう少しだ! ジャンプの準備を始めろ!」 アンドルーは短く深呼吸した。 「キャサリン」 「ええ、わかってるわ。うまくいくように、おまじないでもしてて」 彼は彼女の頬にキスをした。 「おまじないだ。さぁ、やってくれ」 「ふふ、そのおまじない、効いたかも」 キャサリンは両手を高々と挙げる。 「バズビ、バザーブ、ラック、レク、キャリオス、オゼベッド、ナ、チャック、オン、エアモ、エホウ、エホウ、エーホーウー、チョット、テマ、ヤナ、サパリオウス」 彼女は低い声で詠唱を始めた。 やがて、空間が鳴動を始め、血の魔法陣から光が発し始めた。立ちのぼる煙のような光は、徐々に形を整えながら、ピラミッドを包みこんでいく。 一方、ピラミッドだったものも変容していく。それはおどろおどろしい悪魔の姿を思わせた。 「きたれ、聖なる秩序よりいでしものよ。 天空を支配し、大地を割るものよ。 汝、時空を旅するもの。 闇の敵、光の盟友たる守護者よ。 静寂を愛し、静寂を破るものにして、炎を凍らせるものよ。 あまたの世界に秩序と平安をもたらしたまえ!」 キャサリンの澄んだ声が、量子空間に響き渡った。 そして魔法陣の光は、ついに姿を顕在化した。それはドラゴン――秩序の象徴だった。 ドラゴンはピラミッドの悪魔に襲いかかる。炎を吐き、四肢を絡めて、システムのコアをがんじがらめにしていく。 抵抗するピラミッドからは、無数の突起が伸び、ドラゴンを串刺しにしようとする。 攻防は一進一退だった。 ドラゴンに鋭い突起が刺さると、そのダメージはキャサリンにも反映される。腕や足に、次々と刺された穴が開き、血が流れた。彼女は痛みに体をよじりながらも、毅然と立っていた。 アンドルーは彼女の華奢な体のどこに、そんな強さがあるだろうと驚いていた。彼は少しでも彼女が楽になるようにと、背後から強く抱きしめた。彼女は踏んばっていた体の緊張を解き、彼にもたれかかる。そして、ドラゴンを操ることだけに集中した。 と、次の瞬間――。 一本の突起が、キャサリンめがけて伸びてくる。 アンドルーは彼女を抱いたまま、くるりと体を回した。 グサッ!―― 「あうっ!!」 彼は悲鳴を押し殺した。槍は彼の背中に刺さっていた。 「アンドルー!」 「大丈夫だ。オレが盾になるといったろ? 続けろ、奴を叩きのめして、手なずけるんだ」 キャサリンはコクリとうなずいて、深呼吸し、叫ぶ。 「万物の支配者にして秩序の化身よ! 混沌なる邪悪を打ち砕け! 闇を光の戒めで封じよ! この汚れなき体を御国に捧げる! わが名はキャサリン! 聖なる巫女なり!」 彼女の体が光り始め、同時にドラゴンも太陽のような強烈な光に包まれた。 光の圧力に屈するかのように、針のむしろと化していたピラミッドが、徐々に収縮していく。 彼女とドラゴンの輝きが、正視できないほどまぶしくなる。 アンドルーは彼女を抱きしめたまま、目をつぶった。彼は光の音をきいていた。それは教会のパイプオルガンのような荘厳な和音を奏でていた。 やがて、音は残響の尾を引きながら、静寂の幕を下ろした。 「終わったわ……」 キャサリンは肩で息をしていた。 アンドルーは目を開けて、ピラミッドを見る。正四角錐の四つの面には、魔法陣にあった守護天使の名前が刻印されていた。そして黒いピラミッドは、大理石のようにまっ白なピラミッドとなっていた。 「あれはもう、わたしたちのものよ」 彼女は誇らしげにいった。 「よくやった! キャサリン」 ふたりは量子空間から離脱した。 肉体に戻ったアンドルーは、即座に立ちあがった。背中に激痛が走る。 「あったた!」 「おい、大丈夫かよ?」 ゲーリーは心配そうにいった。 「オレの心配よりも、DPTスフィアの方は?」 「セットアップした。あとはキャサリンの手なずけたシステムに座標を設定して、オートパイロットさせるだけだ。ジャネット?」 「やってるわよ。綾瀬チームの座標を基本にして、彼らよりも数ヶ月は早く着きたいんだろ? 難しいのよ、その数ヶ月がね。百万分の一ポイントの差で、誤差が増大するんだから。検算とテストでもっと精度を上げないと……」 彼女は赤毛を掻きむしった。 「そんなに時間はなさそうだぞ」 アンドルーは焼き切られようとしているドアを指さした。 「ジャンププロセスのカウントダウンは三〇から始めよう。それ以前は飛ばす」 「無茶苦茶いわないでよ! それじゃ、ほとんどぶっつけ本番だわ!」 「そうだ。このチャンスはもう二度とない。彼らがデータを提供してくれるとも思えないしな。ジャンプを実行する。スフィアに入れ」 ジャネットは舌鼓を打って立ちあがった。そして弱っているキャサリンに手を貸して、コントロールルームを出ていく。ゲーリーもあとに続いた。 アンドルーはDPTシステムに起動の指示を入力し、ジャンプ後に自壊する命令を与えた。これでしばらくは使い物にならなくなる。未来からジャンプすれば、時差は問題にならないが、多少なりとも気休めになる置き土産だった。 「アンドルー!」 ゲーリーがDPTスフィアの入口から、大きく手を振って呼んでいた。アンドルーは走った。 時空確率転送機(DPT)スフィアは、完璧な球体だ。光の反射率がほぼ百パーセントであるため、周囲の光景を球面に鏡像として映している。その歪んだ鏡は、見ていると目眩を覚え、実体の存在を捉えにくくしていた。直径は十メートルほどだが、その大きさを実感するのは難しい。 球体は通常の物質でできているのではない。エキゾチック物質――負の物質なのだ。それは通常の物質とは相互作用をしない――つまり、外部からの干渉を受けつけないのである。球体の内部は、外部の世界から完全に隔離される。 アンドルーはスフィアに走りこんだ。 ゲーリーが円形の入口を閉じる。入口はしぼむようにして閉じ、始めからなかったかのように、ピッタリとふさがった。 内部はまったくの無音である。聞こえるのは四人の息づかいだけだった。 「カウントは?」 アンドルーは静寂から染みだしてくる、緊張感と恐怖感を打ち消すようにいった。 「あと二〇」 ジャネットは答えた。その声は震えていた。ジャンプに失敗すれば、自分たちの存在そのものが消えてしまうことを承知していたからだ。 「腹減ったな。向こうに着いたら、まず、マクドナルドに行こうぜ。本物を食ってみたい」 ゲーリーは無理に笑みを浮かべていった。 ジャネットは眉間に皺をよせて、首を振った。 「牛の死体の肉じゃない! 野蛮よ。あたし、そんなの食べたくないわ」 「慣れるしかないだろうよ。昔は動物の肉が当たり前の食料だったんだ」 アンドルーは鼻で笑った。 「わたしは……お寿司」キャサリンがいった。 「ゲゲゲー! 生の魚じゃない。みんなゲテモノ好きなの?」 ジャネットは手を激しく振って、嫌悪感を露わにした。 「食いものの話ばかりかよ? ピクニックに行くわけじゃないんだぞ」 アンドルーはため息をついた。 「アンドルーだって、口に出さないだけで、いろいろと思惑はあるはずだぜ」 ゲーリーはしたり顔でいった。 「カウント!」 話題を打ち切るように、アンドルーは大声を出した。 「一〇を切ったわ。八……七……六……五……」 全員が息を呑んだ。 「いよいよだな。オレたち……」 アンドルーが最後まで言葉を発する前に、彼らの肉体と意識は量子的な確率の海の中へと沈んでいった。 時空を超えて、過去へと――。 「アンドルー?」 「ん?」 「どうしたの、ボーッとして。何度も呼んでるのに」 キャサリンは心配そうに彼の顔を覗きこんだ。 「ごめん。ちょっと考え事をしていた」 「どんな?」 「ジャンプの時のことだよ。ついつい考えてしまうんだ。オレたちの選択と決断は正しかったのかってね」 「済んだことをあれこれ考えてもしょうがないぜ。というか、まだ起きていないことか」 ゲーリーは食べものを口に入れたまま笑った。 「これって、けっこう癖になるね。チーズがたまらないわ」 ジャネットはハンバーガーを頬ばっていた。 彼らはマクドナルドにいた。ボックス席にテーブルを囲んで四人で座っている。ゲーリーとジャネットは、バクバクと食べることに夢中になっていた。キャサリンはシェイクをすすっている。 日中はそれぞれに別行動で情報収集をしていたが、夕刻になると、ほぼ毎日こうしてマクドナルドで顔を合わせていた。 店内には学校が近いこともあって、同じ制服を着た同年代の少年少女が多くいた。近くの学校――私立「聖天原学園中学校」はクリスチャン系の学校であり、在日の外国人も珍しくなかった。制服を着ている生徒の中には、ちらほらと外国人が交じっている。新学期が始まったこともあって、混雑に拍車がかかっていた。 それでも、彼ら四人は目立っていた。私服であるというだけでなく、存在感そのものが際だっていたのだ。周囲の視線が注がれていることを、アンドルーは感じていた。 「オレたちも、あの学校に入る必要があるな。これでは目立ちすぎる」 「どうやって?」ジャネットがきいた。 「郷田という人物と接触しよう。彼が綾瀬チームをサポートしているんだからな」 「一石二鳥ね。綾瀬チームとも接触できる口実になるわ。向こうはこっちを知らないけどさ」 「それはそれとして、さっさと食えよ。冷めたらまずくなるぞ、アンドルー」 ゲーリーは三個目のハンバーガーを口に入れていた。 アンドルーはトレイに載せてあったハンバーガーを口に運ぶ。ジューシーな肉の味と、ソースの味が舌を心地よい感覚で刺激する。 「たしかに……、美味いな……これは」 彼らはしばしの間、自分たちに課せられた任務や運命のことを忘れ、一四歳のいまという時間を楽しんでいた。 |
.第六節「オースティン3章16節に曰く」 | 返信 △ ▲ |
【Writer:水上 悠】 キン! 耳障りな金属音が二人の気まずい沈黙の中に不協和音となって飛び込んできた。 「あれがベースボールってヤツか?」 アンドルー・ラザフォードが興味なさそうにいった。 「違うね。ベースボールじゃない。この地域のこの時代の言葉でいえばヤキュウってヤツだろ。でも、厳密にいえばそのヤキュウでもないんだけど」 ゲーリー・ブッシュが手にしたデータスレートを見ながら答える。 「でも、あいつが振り回してるのはどうみたってバットってヤツだろ?」 「そうみたいだね。本当ならピッチャーってのがボールを所定の位置からキャッチャーってのに向かって投げるのを、バッターっていう対戦チームの代表がバットで打つってルールらしいけど」 ゲーリーのデータスレートに詰まった情報に頼るまでもなく、アンドルーは、グランドのはるか遠くまで飛んだボールを追って慌てて走っているのがピッチャーであるはずはないと思った。バッターは、ボールを打ったら敵のファーストというポジションめがけて走るルールなのに、バットを振り回して、ボールを追っているピッチャーに向かってヤジを飛ばしている。 「はやく取ってこいよぉ!」 「データにないベースボールとヤキュウに似たゲームかもしれないね」 ゲーリーが平然といった。 アンドルーが「そんなわけねぇだろ」と肩をすくめる。 「まったく、ベースボールでもヤキュウでもなんでもいいから本物を見せろっていうんだよ。わざわざこんな所まできて、データにも残ってないゲームの調査ってわけじゃねぇんだからさ」 「おいアンディ、これってすごい発見かもしれないよ」 「オレたちから見れば、ここにある全部がすごい発見」 綿密な過去のデータから構築された二一世紀初頭の世界のシミュレーションを通して、二人は完全に二一世紀を理解したつもりでいたが、いざ飛ばされてみると、シミュレーションと現実とではまったく違った物だということを否応なしに知らされた。 与えられた使命をまっとうするためには、十分な順応期間をおくべきだったが、人為的なミスで当初の予定より四ヶ月も遅い時期に飛ばされてしまっていた。 この遅れをどう取り戻すべきか。 チームのリーダーであるアンドルーにとっては、リーダーとして課された初めての試練となっていたが、チームの他の三人ときたら遅れを取り戻すどころか、個人的興味を満たすために組まれた当初のプログラムを優先させることを主張し、ばらばらの行動を取っていた。 今日も、他の二人は個人的興味のために別行動を取っており、アンドルーは嫌がるゲーリーを無理矢理このジュニアハイスクールへとひっぱってきていた。 「ジャネットとキャサリンは何処に行ったんだ?」 「キャサリンがノイマン型のコンピュータが見たいっていうんで、二人でアキハバラに行ってるよ。この時代じゃノイマン型のコンピュータなんて、アキハバラじゃなくてもそこらじゅうに転がってるっていうのに」 そういうゲーリーが、実は二人のアキハバラ行きに同行しようとしていたのをアンドルーは知っていた。ゲーリーがこのチームに加わった本当の理由は、二〇世紀末、この日本という地域から世界に広がっていった「オタク」という文化に感心があったからだった。 ようやくピッチャーが、ボールを拾い上げた。 「よ〜し、そこから投げてみろ! イチロー!」 打っても走らないバッターが訳のわからないことを叫んでいる。 「あと一年早ければ、イチローの大活躍が見れたんだよな」と、ゲーリーがいった。 「なんだよ、そのイチローって? カート・アングルより強いのか?」 「はあ?」 「いや、いい。それよりおまえ、よく知ってるな?」 得意げにゲーリーはデータスレートをアンドルーに見せた。 「必要なことかと思ってさ。この時代の連中と話す時に、話題に困ったらイヤだろ」 「ゲーリー、お前目的ってもんを忘れたのか?」 「忘れちゃいないさ。その目的を果たすためにはやっぱりこの時代に馴染まないと。それに、アンディだってなんか他に理由があったんだろ、このチームに参加したのにはさ」 ゲーリーの最後の言葉にアンドルーは口ごもった。 「そのアンディって呼び方やめてくれ」 「別にいいだろ」 「いや、その呼び方するのママだけなんだ……」 「あれ、もしかしてマザーコンプレックスってヤツ?」 「違う!」 キン! 白いボールが空の青に吸い込まれていく。 「わかった。あれ、地獄の千本ノックってヤツだ」 ゲーリーが指を鳴らして大きくうなずく。 「なんだよ、そのジゴクノセンボンノックってのは?」 またゲーリーはスレートを見せた。そこには稚拙な線で描かれたイラストが映し出されていた。 「なんていうのかな、この地域に根付いてる古い考え方なんだけど、スポーツでもなんでもコンジョーがあれば出来るってヤツの延長にあるトレーニング方法」 「でも、あのピッチャーが投げたボールを打ったんだろ?」 「え、そうなの?」 「スレートばっか見てねぇで、ちゃんと見てろよ」 アンドルーはパンとゲーリーの後頭部を軽く叩いた。 バッターがピッチャーにまた何か叫んでいる。 「それよりさ、アンディ……じゃなかったアンドルーの目的はなんなの?」 「目的? そりゃ目的は目的さ。他にあるか?」 「個人的な目的ってヤツだよ」 「そ、そんなもんあるかよ。オレは崇高たる目的のためにこの二一世紀に赴いたまでのこと」 「なんかあやしいなぁ……」 したり顔でゲーリーはアンドルーを見た。 もう一度叩いてやろうかとアンドルーは思ったが、どうにか思いとどまった。 「ちょっとタイム!」 ピッチャーがボールを追うのをやめて、グランドに倒れ込んだ。 「何をいうか! そんな様じゃ巨人の星はつかめんぞ飛馬!」 バッターが叫ぶ。 「だから何度もいってるだろ、野球は二人でやるものじゃないって!」 「しょうがねぇだろ二人しかいないんだから」 「じゃあ、プロレスだな。どうせ、バット使うんだから同じだし」 バッターはおもむろにバットを両手で頭上に振り上げ、ピッチャーめがけて走り出した。 「だから、それも違うっていってるじゃないか!」 よろよろとピッチャーが立ち上がるのを見てアンドルーはぽつりといった。 「オレならイスを使うな」 「はぁ?」 ゲーリーは口をぽかんと開けアンドルーを見る。 「やっぱしプロレスにはイスだよ。イス! わかるかゲーリー? あの金属のパイプをねじ曲げてつくった折り畳みが出来る機能的なデザインのイスをこうパ〜ンって畳んで振りかざす時のあの興奮……」 アンドルーの手には見えないイスがつかまれているのか、まさにこれからゲーリーに向かって手にしたイス振り下ろそうとでもいうようなジェスチャーをする。 「もしかして、それがアンドルーの目的?」 ゲーリーの言葉に、アンドルーは観念し、目には見えないイスをゲーリーの頭に叩きつけるようにしていった。 「……ああそうだよ。ちゃんと予定通りにこっちの時間の三月の頭に到着してれば、レッスルマニアが見られたんだ。誰だよアメリカと日本じゃ学校の新学期が違うってのを調べなかったのは! 勝手にアメリカの時間で考えやがって! 生じゃなくても良かったんだ。一月遅れでも、日本ならテレビってヤツで見れたんだ。まったく、なんだってこの年のカナダのスカイドームの大会だけアーカイブから抜けてんだよ!」 怒鳴り散らすアンドルーを横目に、ゲーリーはスレートで検索していた。 たしかにプロレスの一大イベント、レッスルマニアの18回大会だけがアーカイブから抜けていた。 グランドではバッターが白の上着を脱ぎ捨てていた。 その黒のTシャツに書かれたメッセージを見て、アンドルーは目を丸くした。 「なんでアイツがオースティンのTシャツ着てるんだよ!」 Tシャツには白の文字で「Austin 3:16」とあった。 すかさずゲーリーはその単語の意味を調べる。 「あれなら、簡単に手に入るよ」 ゲーリーがいった。 「簡単にって……。おい、あれはアメリカのニューヨークに行かないと買えないんだ。通信販売とかいう手もあるらしいが船で送られるから、到着するのがスゴク遅かったってどっかのアーカイヴにあったの読んだことがある」 「大丈夫だよ。ここでも手に入るって。最初からいってくれてりゃ良かったのに」 「なんで!」 「オカチマチにあるでっかいショッピングモールに売ってる店あるんだぜ」 「そのオカチマチってのは、近いのか?」 「アキハバラの近くだよ」 ゲーリーはアンドルーにスレートに映った地図を見せ、Tシャツが売られているであろうショップの位置まで示してみせた。 アンドルーの身体がその場に崩れ落ちた。 そんなに近くにあったとは……。 やはり今日はチームでアキハバラに行くべきだったのか? 自問自答が続いた後、アンドルーはオースティンのTシャツめがけて突進した。 ゲーリーは、アンドルーが次に起こす行動を予想してみた。 あまり想像はしたくなかったが、スレートでオースティンの必殺技を検索しはじめた。 「あんたたち何やってんの! もう授業始まるわよ!」 ビルの上の方から女性の叫び声が聞こえてきた。 バッターとピッチャーがぴくりとその声に反応し、互いの顔を見合わせる。 バッターにまさに飛びかかろうとしていたアンドルーも、その声の主のほうを見あげていた。 「始業のチャイム鳴ってるでしょ!」 「すいませ〜ん!」 バッターとピッチャーが建物の方に走り出す。 そのとき、アンドルーとゲーリーの方を興味なさそうな視線を二人に向けてきたが、アンドルーもゲーリーもそれに気付くことはなかった。 カランコロンと電子音が鳴り響く。 アンドルーは太陽に向かって身体をのけぞらせ、両手を挙げて己の力を誇示するポーズを取っていた。ゲーリーのデータスレートには、それと似たようなポーズでリングという格闘場で、たくさんのフラッシュライトを浴びるはげ上がった頭のレスラーの姿が映し出されていた。 ほどなくしてアンドルーが戻ってきてゲーリーの肩を叩いた。 ゲーリーは慌ててスレートをポケットに押し込む。 「行くぞ」 「どこへ?」ゲーリーは訊いた。 「決まってるだろ。チームはチームとして行動しなきゃならないからな」 水上 悠
2001/12/10月13:23 [6] |