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.第三三節「未来の遺伝子」Part-1 | 返信 ▲ ▽ |
【Writer:諌山 裕】 人類の歴史を語る過去の遺物。 過去を辿ることは、未来を予見することでもある。過去に起こった出来事を、直接垣間見ることはできないが、遺物は記憶の断片なのだ。そして記憶は未来を導く、道しるべとなる。 月の歴史資料館の長い回廊を走りながら、のぞみは自分が生まれ育ってから以降の未来に想いを馳せる。 (ここには、二六世紀から三〇世紀までの歴史がある。人々にとって、その四〇〇年間はどんな世界だったのかしら……) 遺伝子が進化の歴史であるように、ここにある遺物は人間世界の遺伝子でもある。戦争、災害、文化、そして科学とテクノロジー。科学は人類の歴史を決定的に変えた。いい意味でも悪い意味でもである。二五世紀以降、人類は長年のツケを払うこととなった。それもまた科学の功罪だといえる。 二六世紀のフロアに入ると、彼らは歴史の回廊から脇道にそれた。のぞみはもっと先を見たい気もしていたが、歴史ツアーをしているわけではないと自分を戒める。 ほどなく彼らは、奥まった一角へと入っていく。 「ここよ」高原はいった。 「おおっ、懐かしいマシンだ」達矢はうれしそうにいった。 時空確率転送機はまるで新品のような光沢を放っていた。コンソールには手垢ひとつなく、歳月の経過を示す曇りや傷もない。 「こりゃすごい。おれたちが使っていたものと同型だ。いつの時代のものだい?」達矢は感心していた。 「二五九八年製よ。アジアセクターからの回収品だわ。物質の転送機としては、最終型だった。時空ジャンプ計画自体が、二七世紀になってから縮小していったの。明確な成果が得られないことから、計画そのものの意義を問われたからよ」高原が答えた。 「そうか。じゃ、これはおれたちが使ったものかもしれないな」 のぞみはコンソールの椅子に座ると、いくつかのパネルやキーを操作する。彼女はひとつのキーをなん度も叩いて、笑みをうかべた。 「間違いないわ。これはわたしたちが使ったマシンよ。このキーの癖は気になっていたから憶えてる。タッチが甘いってわたしが文句をいったのよ」 「使えそうか?」と達矢。 のぞみはメインパワーをオンにした。 パネルとインジケーターにライトが点り、低く唸る駆動音とともにピッピッと確認音が合唱した。各パラメーターのステータスが表示され、グリーンの範囲内であることを示した。 「特に問題はなさそうだわ。あとは座標の設定と、ジャンプコンディションしだいね」とのぞみ。 「よし、ここはのぞみにまかせる。おれは電磁界メモリの問題を片づけよう。御子芝さんと高千穂さんはのぞみをサポートしてくれるかい?」達矢はふたりに顔を向けた。 「よかろう」高千穂はうなずいた。 「おれと高原さんは、敵の中枢に乗りこむ」 「待て」と御子芝。 「ひとりで行くつもりか? そっちの方が大きな問題だ。私も一緒に行く。戦力は必要だ。のぞみのサポートと護衛は、高千穂ひとりで十分だ」 「敵陣に乗りこむ方が面白そうだな。俺もつきあうぜ」高千穂はいった。 「のぞみをひとりにはできない。おまえはここに残れ」御子芝はピシャリといった。 「ちっ。いつも樹は美味しいところを取るんだな」高千穂は不満をもらす。 「涼、おまえなら安心してまかせられるからだ」 「そういうことなら――」 高千穂は御子芝にスッと体をよせ、片腕を彼女の背中に回すと、唇を合わせた。 「残るのはおまえだ。女を守るのが男というものだ」 「なっ!」 御子芝は体を引いた。しかし引いたのはわずかで、彼の腕から離れることはなかった。 「納得したか? それとももう一度口づけが必要か?」 御子芝は高千穂を睨みつけたが、ほどなく顔をほころばせる。 「これは貸しにしておく。無茶はするな」 「ふむ。どうやって返してくれるのか、楽しみだな」高千穂は口の端を持ちあげた。 「達矢も気をつけてね」のぞみは心配そうにいった。 「わかってるよ」達矢は大きくうなずいた。 「一時間で戻る。それまでにジャンプの準備をやってくれ。もし……、おれたちが戻ってこなかったら、君たちだけでも二一世紀に帰るんだ。いいな?」 「それはできないわ! みんな一緒よ!」のぞみは首を振った。 「おれだって帰りたいんだ。絶対に戻ってくるつもりだけど、もしものときは……。御子芝さんはわかってるよね?」 御子芝は眉をひそめる。 「むむ……承知した。だが、ギリギリまで待つぞ」 「ああ、じゃ、行ってくる」達矢はきびすを返した。 「達矢、大事なことを忘れてないか?」御子芝が呼びとめた。 「なにを?」 御子芝はのぞみを指さした。のぞみは立ち上がって、心配顔を向けていた。 達矢は照れ笑いをうかべながら、のぞみに歩みよる。そして彼女の頬を両手で包んだ。 「必ず戻るよ」 「うん」 のぞみは目を閉じ、達矢はそっと唇を重ねた。 停電が復旧して、蛍光灯がまたたいて点灯した。 「おっと、意外と早かったな」 ゲーリーはコーグルをはずした。暗視ゴーグルには不意の強い光に対応する安全装置が組みこまれており、強い光でも目が眩むということはない。下手な映画やドラマでは、閃光に眩むシーンが出てくるが、二〇年前ではありえたものの現在のタイプは安全なのだ。 「さてと、どうする?」光輝もゴーグルをはずした。 アンドルーは不安げな客たちを見まわす。 「こいつは」といって、気絶している涼樹を指さした。 「縛って口をふさげ。高原には地下を案内してもらおう。ほかのものは納戸に監禁だ」 「よっしゃ」 ゲーリーはリュックからガムテープを取りだすと、涼樹の腕を背中に回して縛りあげ、足首にもテープを巻いた。最後に口にもテープを貼った。さらにリュックからガチャガチャと手錠を取りだした。 「元ミス・マリアさんよ、手をうしろに。こいつは九千円もしたんだ。S&W社製だぜ」 高原はいわれるままに手をうしろに回し、ゲーリーが手錠をはめた。 「残りの諸君、自発的に動いてくれるかな? 納戸は二階だ」ゲーリーはエアーガンを振った。 「ま、待ってくれ! 僕は彼らとは無関係なんだ。たまたま招待を受けただけで……」黒井はいった。 アンドルーは厳しい視線を黒井に向けた。 「だとしても、君が立ち入るようなことではない。これ以上関わらないことだな」 黒井は自分の半分にも満たない年下の少年の視線にたじろいだ。アンドルーの振る舞いには、少年とは思えないほどの達観した雰囲気があったからだ。 「地下に……地下にあるものがなんなのか、知りたい……」黒井は恐る恐るいった。 「君はもう知りすぎている。來視能力者はやっかいの種だ。危害は加えないから、首を突っこむな」 「ねぇ!」春奈が手を挙げた。 「黒井さんには見せていいかも」 「どうして?」アンドルーは首を傾げた。 「黒井さんの來視は、ずば抜けてるのよ。彼が目をつけられたのはそのためだわ。わたしたちが彼の行動を監視していたのも同じ理由よ」 「わたしたち? 君にも仲間がいるのか?」 「うん……まぁね」春奈は曖昧な返事をした。 アンドルーはゲーリーと光輝を見る。視線を受けたふたりは肩をすくめた。 「イヴのイメージをくれたのも、黒井さんだし、一理あるかも」と光輝。 アンドルーはしばし思案する。 「わかったよ。黒井は同行させよう」 「ということだ、では残りのものは二階に」ゲーリーは顎をしゃくった。 客は渋々ながらも席を立って、指示に従う。ゲーリーは最後尾について、彼らとともに二階へと向かった。 アンドルーは手錠を掛けられた高原の腕を引いて、地下室への階段に向かう。高原は捕らわれの身であって、毅然として背筋を伸ばし、優雅に歩いていた。 地下室は雑然と様々な器機が置かれ、ケーブルやパイプが無造作に床を這っていた。新旧のメーカーが違う十台ほどのパソコンが並べられ、システムを構成していることが見てとれた。 「規模は小さいけど、ぼくたちが作ったシステムに類似したもののようだよ。ただ、性能はかなり劣るけど。スパコンというほどのものではないな。ただの並列システムのようだ」光輝はいった。 「こんなちゃちなもので、時空確率を出現できるのか?」アンドルーは高原にきいた。 「答える気はないわ」高原は憮然としていった。 「確かめてみるまでだ」光輝はシステムを起動させる。 パソコンの電源がオンになると、ファンの音が唸り始める。システムが立ち上がると、光輝は中身を検分する。 「ふんふん、リナックスベースの並列システムか……。面倒なことをしたもんだ。マックOS・Xペースの方が効率がいいのに」光輝は独り言のようにいった。 「しかし……」光輝の目が輝いた。 「このプログラムは面白いよ。ふんふん……そういうことか……」 彼はプログラムソースを高速でスクロールさせながら、読みとっていく。 「なんかわかったのか?」アンドルーはため息をついた。 そこへゲーリーが降りてくる。 「お客さんは閉じこめてきたぜ」 熱中している光輝に、アンドルーはしびれを切らす。 「光輝?」 「ああ、こいつで確率場は出現できない。ただ、ほんのわずかだけど確率の揺らぎを導くようだ。能動的な操作はできないけど、外因によって確率を変動できるんだ。おそらく、数百億から数兆分の一程度の確率で。フルに稼動させていれば、数ヶ月に一度は確率を変動できるかもしれない」 「つまり、どういうことだ?」 「受信機なんだよ。未来からの干渉があれば、このシステムとのリンクが、ごく希に確立される。そのときには未来のシステムから、この時空に確率場を形成できるんじゃないかと思う。たとえるなら、これは時空座標を特定させる、ブイのような役割だね。時空確率そのものは未来のシステムで行うんだ」 「そうなのか?」 アンドルーは高原の顔を見た。しかし彼女はそっぽを向いた。 「なるほど、図星のようだ。これを使って、のぞみを転移させたのか? いつの時代に?」 高原は依然として返事をしなかった。 「三〇世紀だ……。彼女は月にいた……」 黒井がつぶやいた。 「なに?」驚いたのはアンドルーだった。 「來視したことがあるのか?」 黒井はうなずいた。 「彼女と少年がいた……。戦って……彼女は泣いていた」 「それでどうなった?」アンドルーは詰めよった。 黒井は頭を振った。 「わからない……、ただ、ふたりは雪の降っているところに行った」 アンドルーはかぶりを振る。 「まるで占いだな。漠然としすぎている」 「來視って、そういうものよ。印象的なシーンだけがうかぶものだから」と春奈。 「まぁいい。光輝、こいつを動かせるか?」 「動かせるが、どうするつもりだ? こちらからはコントロールできないんだよ」 「もし、のぞみが三〇世紀に送られたのなら、彼女には助けが必要だろう。オレが行く。高原、オレを未来に送れ」 「ははっ」高原は笑った。 「ひとりで行って、なにができるというの? 行った先には私の仲間たちが待ちかまえているのよ。そもそもどうやって戻ってくる気? 正気じゃないわね」 「おまえがどう思おうっと勝手だが、おまえらの懐に飛びこんでやろうというんだ。悪い話ではなかろう?」 高原は値踏みするようにアンドルーを見つめた。 「いいわ。やってあげましょう。後悔するわよ」 「ちょっと待った! 行くならオレだ」ゲーリーが割ってはいる。 「なんでおまえなんだ?」 「アンドルーはリーダーじゃないか。理奈とキャサリンは身重だし、チームを仕切るにはおまえが必要だよ。ジャネットには光輝が必要だしな。フリーなのはオレだけだ」 アンドルーはゲーリーの真剣な視線を受けとめる。ゲーリーの目には、強い意志と訴えかけるものがあった。アンドルーは彼が口にはしない意図を察した。 「いいだろう。ゲーリーにまかせよう」 高原は手錠をはめられた手を振った。 「これ、はずしてくれる? これじゃ、なにもできないわ」 ゲーリーは鍵を取りだすと、高原の手から手錠をはずした。 高原は自由になった手首をさすりながら、椅子に座り、プログラムを起動させる操作を始める。 「ゲーリーくん、中央の椅子に座って、頭にあれをかぶってちょうだい」彼女は命令口調でいった。 ゲーリーは高原を睨みつけてから、椅子に座り、アームからぶら下がっているヘルメット状のものを手に取る。ヘルメットからは束になったケーブルが延びていた。 「こいつは?」 「脳波をキャッチしてシンクロさせるものよ。脳内の電磁界共鳴を誘発するの」 ゲーリーがヘルメットを頭にかぶる。 「いいぜ。いつでも来い」 「へんな真似はするな」アンドルーはスタンガンを彼女の背中に押し当てた。 「作業の邪魔はしないことよ」彼女はツンとしていった。 高原の隣で光輝は進行状況をモニターしていた。 「プログラムは立ち上がった。これからどうするんだ?」 「待つのよ。確率の揺らぎは來視同様に、いつ起こるかわからないから。数時間で出現することもあれば、数週間のときもある。ただ、被験者が強く望めば、早く出現する傾向にあるわ」 「よし。それならば」 ゲーリーは目を閉じて、のぞみのことを思った。 (のぞみ、のぞみ、のぞみ!! いま、助けに行くぞ! 開け、開け、開け――!!) ゲーリーは眉間に皺をよせて、意識を集中させていた。 緊張した時間が流れる。地下室にいる誰もが、息を殺して次に起こるであろうことに備えていた。 が――、突然うめいたのは、高原だった。 「アウウウウ――!!」 彼女は苦痛に顔を歪め、両手で頭を掻きむしった。呼吸が激しくなり、全身が痙攣で小刻みに震えていた。 「どうしたんだ!?」アンドルーは高原の肩をつかんだ。 制止しようとするアンドルーの手を振りはらって、高原はもんどり打って椅子から転げ落ち、床の上で体をバタバタと激しく痙攣させる。 「ギャアアアア――――!!」 彼女は長い悲鳴を発して失神した。失神してもなお、体の震えは続いていた。 アンドルーは高原の首に手を当て、さらに胸に手を当てた。 「呼吸が止まってる! 心拍も弱い」 彼は口を彼女の口に重ねて、人工呼吸を始める。なん度目かの空気を吹きこんだところで、彼女は咳きこんだ。 「ゴホッゴホッ、苦しい……」 「ゆっくりと呼吸するんだ。君はなにかの発作を起こしたようだ」 「発作……? えっ? あなたは誰? ああ……そうか、思い出した……」 高原は半身を起こそうとする。アンドルーは彼女を背後から支えた。 「ええっと……ここは二一世紀ね? 間に合ったのかしら? のぞみは? 達矢は?」 アンドルーは怪訝な顔をした。 「なんのことをいってる? のぞみを三〇世紀に送ったのはあんただろうが。達矢もなのか?」 春奈が察したように口をはさんだ。 「ははーん、未来の涼子さんが転移したのね。お帰りなさい」 「未来の涼子だって?」 アンドルーは春奈に疑問の視線を向ける。春奈は口をすぼめて、顔をそむけた。 「春奈、君はこうなることを予想していたようだな」 春奈は肩をすくめるだけだった。 「ここはいつ?」高原は周囲を見まわした。 「二〇〇三年三月二一日よ。グッドタイミングね」春奈は微笑んだ。 「四人は無事に戻ったの? ジャンプは成功したの?」 「質問ばかりだな。ききたいのはこっちだ。四人とは誰だ?」 「桜井、神崎、御子芝、高千穂の四人よ。彼らは戻って来れたの?」 アンドルーはため息をついた。 「順を追って説明してくれないか? 君は“誰”なんだ?」 「さっきまでの涼子ではないわ。私は三〇世紀から意識転移してきたばかりなの。彼らも転送したはずなのよ。少なくとも、別れる前はその予定だった」 「未来の高原というのは、そういうことか」 アンドルーの言葉に、春奈はウンウンとうなずいていた。 「ゲーリー! 計画は中止だ」アンドルーは大声でいった。 ゲーリーはかぶっていたヘルメットを脱いだ。 「ちぇっ、せっかく気張ってたのに」 高原はゆっくりと立ち上がって、椅子に腰かける。 「話す前に、お水を一杯もらえる? なんだか喉がカラカラ」 アンドルーは光輝を指さした。光輝はリュックの中から、ペットボトルを取りだして、高原に差しだした。彼女はミネラルウォーターを三口飲んだ。 「ふぅ〜」 未来から意識転移してきた高原涼子は、一息つくと経緯を話し始めた。 〈つづく〉 |
.第三三節「未来の遺伝子」Part-2 | 返信 △ ▽ |
【Writer:諌山 裕】 最近まで――というのは、二〇〇二年以前でのことだが、遺伝子研究者の間では、ヒトのDNAの九七%は意味のない塩基配列の反復であり、なんの役にも立たないと考えられていた。 ヒトゲノムの全塩基配列の地図化を完成させた科学者たちは、ゲノムの約九八・五%が反復配列であるとみていた。その反復は一見無意味でがらくたに思えるものの、もはや意味がないと考えるものはいない。自然界には無意味で無用のものは存在しないからだ。生物を含む宇宙は、気まぐれのように振る舞うが、けっして無意味ではないのだ。無意味に見えるのは、人間がそこに意味を発見できないからであり、己が無知であることの証明にほかならない。 ヒトゲノムは三二億の塩基対で構成されている。個々の塩基対はA、C、T、Gという文字で表される塩基が結合して、“DNAはしご”の横木部分を形成する。この結合にはAとT、GとCの二通りしかない。DNAは遺伝情報であると同時に、情報を具現化するスイッチであり、進化の可能性を秘めた未来のシナリオでもある。 ある科学者は「DNAの反復配列は、バッファの機能を持っているのかもしれない」といった。DNAはたんなる遺伝情報の記憶媒体ではなく、アクティブなメモリとしても機能するのではないかということなのだ。未解明の反復配列が、実際にどういう役割を担っているかは、二一世紀の初頭においては仮説ばかりで、確たる理論はなかった。 二一世紀においては、人間の遺伝子操作は神の領域を冒すものであり、人間性を問われるものだった。それはイヴがエデンで禁じられた果実を口にすることと同等だった。だが、結果的にイヴは果実を口にし、新たな人間の歴史が始まったのだ。人間が自らの遺伝子を操ることは、時間の問題であり必然となった。 人間は禁断の果実を目の前にして、その魅力にあらがうことができないのかもしれない。物質の本質についての知識を得たとき、そこから導き出される核エネルギーが魅力的だったように、遺伝子に秘められたパワーも大きな魅力だったのだ。 第一の目的は、寿命の克服だった。生物の寿命を決定するのがテロメア遺伝子であることは、早くから知られていた。動物を使ったクローン技術の試行錯誤の過程で、ある条件下ではテロメアがリセットされることがわかっていた。テロメアは生命の回数券とも呼ばれ、加齢とともに短くなり、やがては使い切ってしまう。これをリセットできれば、寿命は飛躍的に延びると思われていた。 不老長寿。人間の古くからの願望であり、エゴの最たるものともいえる――夢。 二二世紀に入ると、かつての遺伝子操作アレルギーは消え去り、治療や美容の目的で多くの人々が遺伝子をいじくり始めた。宇宙にも生活圏を求め始めた時代には、低重力や無重力に適応するために、大幅な人間改造が行われた。二三世紀には寿命は一五〇歳近くなり、老いることなく長い人生が送れるようになった。しかし、人間はもっと長寿を求めていた。 反面、長寿の代償もあった。出生率の著しい低下である。長寿と引き替えに、生まれながらにして不妊症の男女が増えた。ひとつの個体で長寿が可能になれば、遺伝子にとって生殖による種の保存の優先順位は低くなったからだ。使われなくなる機能は、休眠するか退化していく。解決策として人工子宮やクローン技術が使われた。表向きには人類は繁栄の最盛期を謳歌していたが、生命の基盤となる生殖能力という点では、衰退が始まっていたのである。 遺伝子改造時代に着目されたのは、当初意味不明と思われていた、反復配列だった。DNAの大半を占めるこの部分を利用することで、新たな遺伝的形質を獲得したのであった。既存の役割のわかっている塩基配列をいじるのではなく、普段は使われていない塩基配列に望みの機能を書きこみ、バイパスさせることで新しい人間をデザインしたのである。たとえば、本来のテロメアを不活性化させ、バッファである塩基配列を任意の長さの疑似テロメアとして機能させた。未使用領域は九八%もあり、神の仕事に較べればかなり精度の劣る疑似テロメアでも、十分に代替することが可能だった。 この方法はDNA資源の有効活用として、瞬く間に広がり、さまざまな機能DNAコードが開発され、実行された。記憶力や理解力といった頭脳的なことに始まり、肉体的能力や肉体的美しさの向上、そして老いることのない肉体。 こうして人類は、不老長寿に近づいていった。 二二世紀中盤から二四世紀に渡って、人間は本来のDNA以上のハイスペック生物体となっていた。人類の可能性は無限大だという幻想すらあった。 しかし、それは幻想に過ぎなかったのだ。 二一世紀初頭の例でいえば、二〇〇MHzのCPUにアクセラレーターをつけて、1GHzのマシンに仕立てるようなものだった。性能は限界まで引き上げられるが、マシンには大きな負荷がかかることになる。負荷のかかった状態で使い続ければ、ある日突然限界を超えてしまい、致命的な故障に至る。 人類にその日が訪れるのは、時間の問題だったのだ。 【萩原恵羽(はぎわらえわ):著「未来の遺伝子」より】 キャサリンが面白い本を見つけたといって持ってきたのは、SF小説のハードカバーだった。「未来の遺伝子」と題された本は、新人賞で賞を取った作品であった。 アンドルーからの連絡を待っていた少女三人は、スパコンのある地下室から郷田邸の三階に戻っていた。 アンドルーは「任務はいちおう完了した。いろいろと予想外の展開になったが、オレたちは無事だ。昼までには帰る」といった。詳細はきかなかったものの、少女たちはホッと安心してベッドに入ったのだ。 夜が明けて、街まで散歩に出かけたキャサリンは、一冊の本を手にして戻ってきた。それが「未来の遺伝子」だった。 理奈は読み終えた本の表紙を、あらためてまじまじと見る。 「『気鋭の新人が描く、衝撃の未来世界』ですって? この宣伝文句は、なんか笑えないわね」 「どうだった?」とキャサリン。 「どうもこうも、この作家はなにもの? 登場人物はあたしたちじゃない。名前も設定もほとんど事実だわ。來視能力者かしら?」 「そうではないように思うわ。あまりにも細かいところまで、具体的すぎるから。想像力で書いたにしては、合致する部分が多すぎる」 「新人賞を取ったんなら、データベースに残ってるはずよね。二六世紀の記録には、こんなものはなかったはずよ。二一世紀以前の記録に、欠落部分が多いことは事実だけど、これほど明確な著作が残らなかったとは思えないわ」 「問題はそこよ。つまり、この作品はわたしたちの知っていた歴史にはなかったものかもしれない。なにかが変わったのよ」 ジャネットが首を傾げて口を開く。 「おかしいわ。もし、ミッシング・トリガーが起こったのなら、なぜ、あたしたちは以前の記憶を持っているの?」 「理由はいくらでも考えられるわ」 理奈はベッドから降りて、室内を歩き始めた。 「記録が欠落していたというのが、もっとも簡単な説明ね。それこそ膨大な記録よ。あたしたちだって、すべてに目を通しているわけではないわ。そもそも過去にジャンプすることの目的の一つが、記録にない過去の調査だったんだから。 記録はあったけど、重要度が低いとみなされていたというのもあるわね。フィクションとしての小説であれば、うなずけることよ。SF小説には未来をテーマにしたものが多いし、破滅的な未来を描いたものは珍しくもない。萩原恵羽がこの一作だけで姿を消してしまったなら、のちの時代で注目されないことは当然かもしれない。 うがった見かたをすれば、ジャンププロジェクトのトップはこの事実を知っていたけど、あたしたちには知らせなかったとも考えられる。あたしたちの行動に影響するからよ。できることなら、徳川さんにぜひきいてみたいものだわ。 そして、ジャネットがいうように、これがトリガーなのかもしれない。萩原恵羽はミレニアムイヴの役割をしているのかも。 でも、それは希望的観測ね。たかが小説では、事実に限りなく近いとしても、読者には架空の物語に過ぎないわ。ある種の警鐘にはなっても、現実的な影響というか、未来を変えることにはならないと思う」 「もうひとつの可能性は」ジャネットが理奈のあとを受ける。 「あたしたちは、ミッシング・トリガーの影響からはずれているのかも。御子芝さんたちや理奈が突然転移してしまったことから、あたしたちの体は時空連続体の干渉に対して、ある種の抗体を持っているとも考えられるわ。いま現在、この時代に属してはいるけど、完全に同化してはいないのよ。すでに未来が変わりつつあるとしても、あたしたちは時空に交じってはいても溶けてはいないんだわ。独自性を保っているのよ」 「楽観的な見かたね」 理奈は部屋を中を行き来するのをやめて、再びベッドに寝ころがった。 ドアがノックされた。 「どうぞ」キャサリンが答えた。 「おはよう」といって入ってきたのは、立原だった。 彼女のうしろから、菅原も姿を見せた。 「やぁ、元気そうだね」 ふたりを呼んだのは、少女たちだった。 「先生、来てくれてありがとう」理奈はいった。 「いいのよ。呼ばれなくても、見舞いには来るつもりだったから。で、お話って、なにかしら?」と立原。 「とりあえず、掛けてください」理奈は席を勧めた。 立原と菅原は、壁際に置かれた椅子を引きよせて腰かけた。 立原が話を切り出す。 「学校のこと? 三年生になっても当分は休学が続くわね。その点については、郷田会長とも話しあっていたの。出産が無事に済むまでは、この部屋で特別授業をしようって」 理奈は笑みをうかべた。 「いろいろと気をつかってくれて、うれしいです。学校のことも気になるけど、今日来てもらったのは、もっと大事なことなんです」 理奈はジャネットとキャサリンに顔を向ける。ふたりはうなずいた。理奈は深呼吸する。 「先生に……、立原先生と菅原先生にお願いがあるんです」 「僕たちに?」菅原は自分を指さした。 「先生たちは、いつ結婚するんですか?」ジャネットが口をはさんだ。 「えっ?」立原は目を丸くした。 「はは……、君たち、からかわないでくれ」菅原は顔を赤らめて、頭を掻いた。 「からかってないですよ。菅原先生は立原先生が好きなんでしょ? 立原先生も菅原先生を見る目が違ってるもの」ジャネットは真顔でいった。 「あのね……」立原は抗弁しようとしたが、口ごもった。 「早く、結婚してほしいんです」理奈はいった。 「お願いって……そういうことなの?」立原は戸惑っていた。 「それはお願いの一部です」とキャサリン。 「一部?」菅原は小首を傾げた。 「先生たちは、子供が好きですか?」理奈はきいた。 「ええ、まぁ。人並み程度には」立原は答えた。 「菅原先生は?」 「ああ、好きだよ。息子とキャッチボールをするのが夢なんだ。女の子だったら、一緒に料理をしたいな」菅原は笑みをうかべていった。 立原は菅原の顔をまじまじと見つめた。彼の口から、そうした子供の話をきくのは初めてだったからだ。 「よかった。それならぜひお願いしたいんです」 理奈はうつむいた。 「なにを……?」 立原は理奈の態度の変化に気がついた。理奈はうつむいたまま、体を震わせていたのだ。キャサリンも同様だった。ジャネットは顔を背けて、目頭を押さえていた。 「どうしたの?」 顔を上げた理奈は泣いていた。 「あたしたちの……子供を……ふたりに育ててもらいたいんです。出産はできるだろうけど、あたしたちは長生きしないから……。来年には老化の初期段階が始まります。いったん老化が始まると、急激に衰えいくの。あたしたちは子育てどころではなくなってしまうわ……」 立原は息を呑んだ。菅原は深いため息をついた。 少女たちが普通の一四歳ではないことを、立原は思い知らされた。見かけは少女でも、彼女たちに残された時間が少ないことを、ついつい忘れてしまう。彼女たちは、生きてきた年月以上の重荷を背負っているのだ。 「お願い……できますか?」理奈は涙声でいった。 立原は立ち上がって、両腕を広げた。少女たちはベッドから降り、立原のもとに集まった。立原はすすり泣く彼女たちを抱きしめる。立原はもらい泣きをしていた。 「ええ、ええ、わかったわ。そんな心配なんてしなくていいのよ。あなたたちはまだ一四歳なのよ。自分が死んだあとのことなんて、考えてはいけないわ」 菅原も立ち上がり、抱擁の輪に加わった。 「そうだ。君たちが未来人と同じ運命を辿ると決まったわけじゃない。妊娠できたことが、その証拠じゃないか。寿命の問題だって、克服できるかもしれない」 すすり泣く少女たちに対して、立原と菅原はただ抱きしめて、辛さを受けとめてあげることしかできなかった。彼女たちを安心させる慰めの言葉は、ありきたりで説得力に欠けた。命は尊いものだと教えるが、ときに尊さには代償がともなうのだ。彼女たちが新しい命を出産すれば、それにともなうリスクも大きくなる。母性に目覚めた彼女たちには、子供の成長を見守れないことが辛いのだ。 男の菅原にもその辛さが容易に想像できた。もし自分の決心で、彼女たちが安心できるのなら……。彼は咳払いした。 「ええっと、立原先生……もとい、立原美咲さん」 「はい?」 「この子たちのお願いに乗じるわけではないですが……、その……」菅原は言葉に詰まった。 理奈は肘で菅原をつついた。 「あのう……、僕と…け、け、結婚してください!」彼の声は裏返っていた。 「菅原さん……そんな……いきなり、いわれても……」 立原は顔を真っ赤にしていた。 今度はジャネットが立原をつついた。 「あ、あの……」 立原は菅原の真剣な表情を見つめ返していた。 「は……はい……」立原は小さい声で答えた。 泣いていた少女たちに微笑みが戻る。慰めあいの抱擁の輪は、喜びの輪へと変わった。 部屋の空気から悲壮感が薄れ、ほのかな幸福感で満たされていった。 高原の先導で達矢と高千穂は、都市の最深部にある枢機評議会の謁見の間へと向かっていた。エレベーターで地下に下り、一般市民が立ち入ることのできない区画から、さらに下った。しかし、予想していた警備員との衝突は起こらなかった。彼らは誰にも妨げられることなく、最下層へと辿りつくことができた。 「おかしいな。どういことなんだ? おれたちの行動に、気がついていないわけではないだろうに」達矢は警戒心をゆるめなかった。 「罠の臭いがするぜ」と高千穂。 「私を疑わないでよ。驚いているのは同じなんだから」高原はいった。 彼らは迷路のような狭い通路を、一列になって小走りしていく。通路の分岐点は奥に進むほど少なくなり、やがては一本道になった。その先には、黄色と黒の斜めのストライプに縁取られた扉があった。 「この向こうが電磁界メモリ貯蔵庫よ」 高原は壁にある楕円形のくぼみに近づき、顔をうずめた。くぼみは脳波スキャンによって、個人を特定する識別装置である。彼女が顔を離すと、厚い遮蔽ドアがゆっくりと開き始めた。扉の向こうは暗く、冷たい風が流れてくる。 達矢はすき間が通れるほど開くと、中に入ろうとした。 「待って! センサーが通る者を感知するわ。認証されていないと、攻撃を受けるの」 「突破方法は?」 「私が先に入って、セキュリティを解除するわ」 「ほかに方法は?」 「認証システムを破壊すれば……」 ダダダダダダ―― サブマシンガンの銃声が響き、弾きだされた薬莢が低い天井にカンカンと当たって散らばった。達矢が脳波スキャナーを破壊したのだ。 「これでいいのかな?」達矢は笑みをうかべた。 高原は耳をふさいでいた。 「いきなり無茶しないでよ! これで警報が鳴ってしまったわ!」 「どっちみち知られているはずだ。隠れていられるより、出てきてくれた方がいい」 「敵の注意を、こっちに引きつける意味もあるな」高千穂は面白がっていた。 達矢はサブマシンガンを腰の高さに構えて、開いたドアをくぐって中に入る。冷たい空気に寒気を感じるものの、攻撃はなかった。 「いいぜ」 彼らは暗い部屋に入った。暗闇には夜空のような小さな光点が明滅していた。 「足下もおぼつかないな。明かりは点かないのか?」 「いま点けるわ」 高原は入口の脇で、いくつかのキーを叩いた。照明が彼らに近い方から点り始め、左右と奥に、さらに上下にと広がっていった。 達矢は目に飛びこんできた光景に、すくみあがった。彼は自分が宙に浮いているような錯覚にとらわれていた。透明な床の上に立っていたからだ。そこは部屋というよりは広大な空間で、遠近法によって遠くがかすむほど広かった。空間は上下にも広がり、彼の足の下にも延々と続いていた。 幾何学的な蜘蛛の巣を思わせる構造物が幾層にも重なり、彼らの周りを囲んでいた。縦横に交錯する蜘蛛の糸の交点には、球体のオブジェクトが連なり、有機体の分子構造を内側から見ているようだった。 「これが……電磁界メモリなのか?」達矢は圧倒されていた。 「そう。ひとつひとつの球体がひとりの魂よ。それが数百億つながっているの。ある意味ではこれ全体が、ひとつの脳のような構造になっているわ」高原は答えた。 達矢はあとじさった。透明な床に立っているために、底の見えない奈落に落ちるような恐怖感が湧いたからだ。 「普段は明かりを点けないのよ。いまのあなたのように高所恐怖感を覚えてしまうから」 達矢は生唾を呑みこんだ。 「枢機評議会というのは、どの部分なんだ?」 高原は両手をぐるりと回した。 「このすべてよ。枢機評議会は月の中枢であり、数百億の集団意識が統合されたものなの」 「彼らは……生きているのか? というか、意識だけになった彼らに人間性は残っているのか?」 「難しい質問ね。人間性をどう定義するかによるわ」 「君も、かつてはこの一部だったのか?」 高原はうなずいた。 「ええ。じつをいえば、肉体を持つ以前の記憶は曖昧なのよ。全体の一部だったし、個人という概念はなかったから。あなたの質問は、脳の中のシナプスひとつに人間性があるかといってるのと同じよ」 「とはいうものの、彼らは肉体を持ちたいと考えているわけだな?」高千穂がきいた。 「意識だけの存在になっても、快楽は求めるものなの。快楽の追求が意識の基盤だともいえるわ。肉体を得るということは、私たちには究極の快楽よ」 「不死を得ても満足しなかったわけか」達矢はかぶりを振った。 「人間性のことをいうなら、どん欲な欲求こそが人間性ともいえるわ。終着点はない。目標は常にもっと先にあるのよ」 「議論はそのくらいにして、これをどうする?」高千穂は現実的な問題を指摘した。 「これだけのシステムを維持するには、莫大なエネルギーが必要だ。エネルギー源はなんなんだ?」と達矢。 「真空エネルギーよ。エネルギー源は無尽蔵、都市には自動修復システムがあるから、数百万年でも維持できるわ。これは不死のシステムなのよ」 「破壊できるのか?」達矢は自信なげにいった。 「どうかしら。誰も試したことはないわ。完璧なのだから」 「完璧なシステムなどありえないよ。宇宙そのものが完璧じゃない」 達矢は考えこんだ。なにか方法があるはずだと。 《無駄なことはやめよ》 唐突に声が響いた。達矢は銃を構えて、周囲を見まわした。 《なかなか興味深い話だった。生身の人間にしては、たいしたものだ。だが、高原涼子よ、おまえには失望したぞ》 高原の顔から血の気が引いた。 達矢はひとつの球体めがけて、引き金を引いた。立て続けに銃弾を受けた球体は、破裂して壊れた。 《無駄だ。ひとつやふたつを壊しても、微々たるものだ。脳細胞が日々死滅してしても、全体に影響がないようにな》 達矢はさらに引き金を引いた。しかし、弾はすぐになくなった。彼はサブマシンガンを投げ捨てると、拳銃を取りだした。 《愚かだな。弾がいくらあっても足りないぞ》 「おまえを破壊する!」達矢は叫んだ。 拳銃を突きだした達矢の前に、光る粒子が集まり始め、やがて人の形を現し始めた。光は徐々に姿を整え、明確な人物となった。人物は若い男性で、純白の輝くローブ姿だった。整った顔立ちに知的で柔和な表情をうかべている。それはまるで宗教画に出てくる天使のようだった。 達矢は弾丸を放った。しかし、弾は人物をすり抜けていった。 《無駄だといっただろう。この姿はホログラムだ。おまえたちと話しやすくするための、仮の姿だ》 「おまえは……」 敵にしては端麗で好感の持てる人物像に、達矢は戸惑っていた。 《名前が必要か? ならば、ガブリエルと呼ぶがいい。いくつかある名前のひとつだ》 「ガブリエルだと? 天使のつもりか?」 《そうともいえる。私は人智を超えた存在だからだ。私は全知全能なのだ》 「自分を神だと思っているのか!?」達矢は叫んだ。 《そう思いたければ、それもよかろう。かつて、そう呼ばれたこともある》 「かつて?」 《そうだ。私は時間も空間も支配しているからだ》 達矢はニヤリと笑った。 「自在に、ではないな。おまえは過去に干渉しているようだが、十分に目的は達成していない」 ガブリエルは小さく肩をすくめた。 《たしかに。時空確率の制御は、パーフェクトではない。だが、それは歴史の中に登場した神々でも同様なのだ。少なくとも私は神に匹敵する能力を持っている》 「なにが望みなんだ?」 《おまえの望みはなんだ?》ガブリエルは問い返した。 「みんなの元へ、二一世紀に帰ることだ! そして、未来を救う!」 ガブリエルは微笑んだ。 《ならば、その望みをかなえてやろう。私は寛大で慈悲深いのだ》 「ふざけたことを! おまえが過去へ侵略することを阻止しなくては、未来はない!」 《なぜ、そう思う?》 「おまえは電磁界寄生体だからだ。人々の意識を乗っ取っている!」 《そうだとして、どこが不都合なのだ? そもそもおまえのいう、意識とはなんだ? 自分がなにものであるか、明確に定義できるのか? 自分が寄生されていないという確証があるのか?》 達矢は返答ができなかった。 《脳の中に発生する意識は、どこからやってくるのか。有機分子の結合から、意識はどうやって発生するのか。意識そのものが外部からの寄生だといえないのか。達矢よ、自分がなにものなのか、答えられるか?》 「辻問答はゴメンだ!」 達矢とガブリエルが問答をしている間に、高原は電磁界メモリシステムにアクセスを試みていた。破壊はできないまでも、機能を制限することはできるかもしれないと思ってのことだった。 彼女は壁面に出現した鏡に向かって、両手を突きだし、グイと押すようにして中に潜りこむ。鏡面は電磁界フィールドの入口であり、中に入ることによって肉体と意識を分離するのだ。彼女は意識を量子空間にダイブさせようとしていた。 「高原!」高千穂は、鏡の中に消える高原に気がつくと叫んだ。 「ちっ、うかつだった! 彼女はなにをするつもりだ!」 《ふふっ。高原は私の元に戻ることを選んだようだな》 次の瞬間、ガブリエルの背後に高原の裸身が出現した。彼女の姿は光に縁取られていた。 「いいえ、ガブリエル。私はあなたを阻止します。この身を犠牲にしてでも」 ガブリエルは振り返り、一瞬顔が引きつった。 《たわけたことを。ひとりで私に対抗するというのか?》 「外部からの攻撃には平気でも、内部からの攻撃ではどうかしら? ちょっとした頭痛程度の効果はあるかもしれない。私にもシステムの一部が使えるのよ。互角とはいかないけど、ささやかな抵抗はできるわ」 高原は祈るように手を合わせる。すると彼女の裸身が中世の騎士の姿になった。手には細身の長剣を持っている。 「神崎くん、高千穂くん、あなたたちはジャンプしなさい。私が彼を押さえている間に」 「高原さん! しかし――」 「行って! もし、可能ならば、二一世紀で再会しましょう。私の分身が、これ以上間違ったことをしないようにしたいから」 達矢は二の足を踏んだ。だが、高千穂に腕を引かれてきびすを返した。 ガブリエルは笑っていた。 《面白い。どれほどのものか、相手をしてやろう》 ガブリエルも変身し、鎧を身につけ剣を手にした。 達矢は走り去りながら、戦いを始めたふたりを見る。彼女の姿は、まるで戦う女神のようだった。 〈つづく〉 |
.第三三節「未来の遺伝子」Part-3 | 返信 △ ▲ |
【Writer:諌山 裕】 理想郷“エデン”は無人の都市であるかのように、ひっそりと静まりかえっていた。深夜の時間帯ではあったが、主だった通りでさえ出歩いている者はいなかった。エデンは突如として不気味な沈黙に包まれていた。 達矢と高千穂は息を切らせて走り続けていた。エレベーターを乗り継ぎ、来た道を戻っていく。 「はぁはぁ、どういうことだ? 誰もいなくなったのか?」達矢は走りながらいった。 「ガブリエルが市民を眠らせたのかもな。俺たちが起こしている騒動を、市民には知られたくないのかもしれない」高千穂は推測した。 「化けの皮を剥がされたくないということか!」 ふたりはこのまま、のぞみたちのいる場所へと戻れることを期待していた。だが、待ち伏せされているかもしれない可能性は考慮していた。歴史資料館の建物に入るときには、物陰に隠れながら敵の有無を確認しつつ、慎重に進んだ。 「あいつは、おれたちを無傷で行かせるつもりなのか?」達矢は安直すぎる展開に合点がいかなかった。 「どうだかな。高原が善戦していて、こっちまで手が回らないのかも」と高千穂。 「そうだといいけど」 ふたりは行く手を阻まれることなく、歴史資料館の回廊を走り抜け、ほどなく二六世紀のフロアへと到着した。目的地に達したことで安堵感とともに、警戒感もゆるんでいた。 「のぞみ!」達矢は叫んだ。 のぞみは振りかえる。 「達矢! よかった、無事だったのね!」のぞみは満面の笑みで迎えた。 「意外と早かったな。もっとかかると思っていた」御子芝はいった。 「高原さんは?」のぞみはきく。 「彼女はひとりで戦っている。おれたちが戻って来れたのは、彼女のお陰だ」と達矢。 「ジャンプの準備はどうだ?」高千穂は御子芝の手を握ってきいた。 「あと、十分かそこらだ」御子芝は答えた。 そのとき―― 突然、高千穂の体が青白い光に包まれた。 彼は声にならない悲鳴をあげて、苦痛に顔を歪めた。 「高千穂!?」御子芝は驚きとともに叫んだ。 高千穂は膝をつき、体を丸めた。御子芝は彼を助け起こそうと近寄る。だが、彼はむっくりと起きあがった。御子芝は彼の異変に気がつく。高千穂は不敵な笑みをうかべて、鋭い眼光を向けていた。 彼は抜刀した。そして御子芝に斬りかかった。すんでのところで彼女は体を引いたが、切っ先が胸元に走った。 「なっ!」 斬られた上衣に血がにじみ、赤く染めていく。 「高千穂! どうした!?」叫ぶ御子芝。 「はっはっはっ、簡単に逃げられると思ったか? 愚か者め」 高千穂の声だが、別人だった。 「まさか!?」達矢は察した。 「私はガブリエルだ。高千穂の肉体は私が支配している。斬れるかな? 愛する者を。はっはっはっ」 高千穂=ガブリエルは高笑いする。 御子芝は抜刀したが、歯を食いしばっていた。 一瞬、高千穂の顔に苦痛がうかんだ。 「樹! 俺を斬れ! こいつを追い出すには斬るしかない! 俺の苦痛はこいつの苦痛でもあるからだ!」 高千穂の表情はガブリエルに戻る。 「なかなか精神力の強い奴だ。私の支配をわずかとはいえかわすとは」 「高原はどうした!?」達矢は拳銃を向けるが、引き金には手を掛けられなかった。 「あの役立たずは、過去に飛ばしてやった。二度と戻ることはあるまい。短い人生を肉体に束縛されて生きるのが罰だ」 御子芝は刀を振り下ろして空を切った。 「卑怯者め。他人の体と心をもてあそぶとは。許さん!」 「ほほぅ、高千穂の体を斬るというのか? 面白い、じつに愉快だ。私には高千穂の記憶と技を使うことができるのだぞ。おまえの弱点も承知だ」 「ならば、高千穂と私が互角だということもわかるはずだ。私は涼のためにおまえを斬る!」 「御子芝さん!」のぞみが悲痛に叫んだ。 「のざみ、達矢、ふたりはジャンプしろ。私はこいつと決着をつける」 次の瞬間、ガブリエルは飛んだ。月の低重力を活かした跳躍で、達矢に斬りかかったのだ。達矢はあっけに取られて避けることができない。まして引き金を引くことはためらわれた。 キ――ン! 刀と刀がぶつかり合った。御子芝が達矢の前に立ちはだかって、一撃をかわしたのだ。 「行け! 達矢! のぞみを連れて帰るんだ!」と御子芝。 「できない!」達矢は首を振った。 御子芝はガブリエルとのせめぎ合いで、足蹴りを繰りだす。ガブリエルはひょいとかわして、距離を空けた。 「くっくっ、足癖の悪さはお見通しだ」 「詰めの甘さは高千穂だな」 御子芝は背中のベルトに差していた、グロック17を抜くと引き金を引いた。弾は高千穂の右肩に命中した。 「ぐあっ!」ガブリエルはうめいた。 「戦いを刀だけに頼るなと、いつもいっていただろうが。使える手段は最大限に活かすものだ」御子芝は苦笑した。 「これしきの痛手はなんでもないぞ! 傷つくのは高千穂の体だからな」 ガブリエルは刀を自由の利かなくなった右手から、左手に持ちかえた。 達矢とのぞみは、ふたりの立ち回りを呆然と見つめていた。 「なにをしている!? さっさとジャンプしろ!」御子芝は命じた。 「でも、最終プロセスが!」とのぞみ。 「スフィアに入って内側からロックしろ! そうすれば奴でも手は出せない! 私がこいつを片づけて、最終プロセスをやる! 達矢、のぞみを引っぱって行け! おまえたちは未来への鍵なんだから!」 躊躇していた達矢は、意を決してのぞみの手を取った。そして鏡面に輝く非バリオン物質のスフィアへと走った。 達矢はスフィアの中にのぞみを押しこむ。 「ここで待っているんだ。おれは御子芝さんを加勢する」 「いやよ! わたしだけでは行けない!」 達矢は苦悩を隠して笑みをうかべた。 「君はイヴなんだ。君だけは生き残らなくちゃいけない」 「違うわ! わたしはイヴなんかじゃない。ただの女の子よ!」 「のぞみ!!」達矢は大声でいった。 「ここにいるんだ。いいね?」 のぞみは涙をうかべて、小さくうなずいた。 達矢はコンソールに戻ると、最終プロセスの確認をしていく。 「達矢! おまえは大馬鹿者だ! さっさと行かないか!」御子芝はガブリエルの攻撃をかわしながら叫んだ。 「お互い様だろ!」達矢は叫び返す。 御子芝とガブリエルの戦いは、一進一退だった。ふたりの体には、刀がかすった切り傷が増えていく。 ほどなく達矢は最終プロセスを完了した。 「御子芝さん、オートパイロットを起動した! 一分以内にジャンプする!」 「わかった! 先に入れ!」 達矢はスフィアに走った。 「そうはさせない!」 ガブリエルは御子芝の隙をついて、コンソールに刀を振り下ろした。刀は機器をショートさせ、火花が飛んだ。ガブリエルは刀を引き抜こうとしたが、なかなか抜けなかった。 「ちっ!」 御子芝は足蹴りをガブリエルの腹に叩きこんだ。彼は刀から手を離して、前屈みにくずおれた。 損傷したコンソールを、御子芝はチェックする。 「くそっ! オートパイロットがやられたか!」 「御子芝さん!」 達矢はスフィアの入口で手招きしていた。 御子芝はゆっくりと首を振った。 「達矢、オートパイロットが損傷した。手動でやるしかない」 達矢はコンソールに戻ってこようとする。御子芝は手を挙げて制止した。 「来るな! 私が操作する。おまえたちは行け!」 「でも……」 「のぞみ、達矢をスフィアの中に入れろ。抵抗したら殴ってもいいぞ」彼女は微笑んだ。 のぞみは達矢を背後から抱きしめて、スフィアの中に引き入れた。ふたりの姿がスフィアの中に消えると、御子芝は入口を閉じる。 「ふたりに未来を託したぞ」 「御子芝さーん!」達矢は悲痛に叫んだ。 入口が閉じると、外の音はいっさいきこえなくなった。 御子芝はジャンプの手動スタートキーを押そうと、手を伸ばす。 「まだ決着はついてないぜ」 ガブリエルは御子芝の背後から、彼女の首を絞める。御子芝はもがき苦しみながらも、スタートキーに手を伸ばした。ガブリエルの手は、万力のように彼女の首を締めあげる。目がかすみ、体から力が抜けていく。 御子芝は最後の手段に打って出る。刀を逆手に持ちかえると、背後のガブリエルに突き刺したのだ。彼の手がゆるむ。彼女はすかさず束縛から逃れ、スタートキーを叩いた。 高千穂=ガブリエルは戦意を失って仰向けに倒れる。彼の腹部には血みどろの刀が刺さっていた。 スフィアは光を発し始め、ジャンプを開始した。 「のぞみ、達矢、頼んだぞ……」 御子芝は倒れた高千穂を見おろす。彼はゴホゴホと口から血を吐いた。 「樹……、見事な一撃だった。おまえといつか真剣勝負をしたいと思っていたが、こういう形になるとはな……」 「高千穂!」 御子芝はひざまずいて、彼の半身を抱き起こす。 「奴は消えたのか?」 「ああ……、激痛に堪えかねて出ていったようだ。ちくしょう、けっこう堪えるぜ」 「なにも話すな。出血がひどい」 「いまのうちに話しとかなくちゃ、いいそびれちまうぜ」 「すまなかった、おまえを生かして取り戻したかった……」御子芝は大粒の涙を流す。 「へへっ、うれしいぜ、樹……」 傷ついたふたりの体が光に包まれ始める。 「ちっ、転移現象の前兆だ! また漂流するのか!? 転送機の稼動で触発されたようだ」 「もし、地球に戻ったら、俺を埋めてくれ。いつの時代でもこの際、贅沢はいわない……ゴホゴホ……」 「もういい、なにもいうな」 「ひとつだけ……可能性があるぜ。俺たちと対になっているかもしれない、もう一方の俺を捜せよ。片割れが消えるわけだから、いつかの時代に取り残されるはずだ」 「ああ、おまえと再会できるなら、生きている限り捜そう」 「くそっ、痛みを感じなくなった……。もうひとり俺がうらやましいぜ……」 高千穂の目がうつろになる。 「樹……愛して……」 高千穂の体から力が抜けた。 「私もだ……」 御子芝は高千穂に口づけをする。ふたりの姿は希薄になり、フッと消えた。初めから存在しなかったかのように。 無音のスフィアの中で、達矢とのぞみを抱きあっていた。ふたりは泣いていた。 「あたしたちのために……」のぞみは言葉が出てこない。 「ああ……おれたちは、ふたりの分まで生きなくちゃならない。帰ったら……帰れたらなんとしてでも未来を救うんだ。それが、おれたちに課せられた使命だ」 「うん……うん……」 のぞみは顔を達矢の胸元にうずめてうなずいた。 スフィアの内壁に虹色の光が渦巻き始める。ジャンプが始まったのだ。 「さぁ、のぞみ。帰ろう……みんなのところへ。おれたちが必要としている時代に」 のぞみは彼の腕の中で体を震わせていた。想いと言葉が絡みあい、熱い気持ちが全身を満たしていた。 大切な時間、大切な場所、大切な気持ち――そして、大切な人。人が人としてあるべき不可欠な条件――それは独りではないということだ。思いやり、慈しみ、讃えあい、愛しあう。人は不完全であるがゆえに、助け合い、補いあって望ましいあり方を求め続ける。個人的なことだけでなく、より大きな関係においても同様である。ひとりひとりの想いが、数百人、数万人、数億人の想いへと発展していくからだ。 彼女はあふれる涙を手の甲でぬぐう。 「うん……。帰りたい……あなたと……一緒に……」 達矢とのぞみは、そっと唇を重ねた。 ふたりを取り囲む光は、時の回廊を遡っていく。 情熱と希望を託して――。 雪は未明から降り続き、積雪も五センチに達しようとしていた。東京は季節外れの大雪に見舞われ、都市機能が随所で麻痺していた。 傘を差した初老の神父姿の男性は、なにかに導かれるように夜道を歩いていた。夜には冷え込みがいっそう厳しくなり、雪がやむ気配はない。 街には立ち往生した車が、あちこちに停車したままとなっていた。道行く人々は、慣れない雪に転びそうになりながら歩いている。神父もなん度か転んで、尻餅をついていた。 彼は数日前に見た夢に突き動かされていた。天使が雪の降る路上に舞い降りる夢だったのだ。四月に雪が降ることはありえないと、神父は夢のことを気にもしなかった。だが、ありえないことが現実となり、東京は白一色になっていた。 夢は啓示だったのかもしれない。彼はそう感じた。夢の中で、天使は完成したばかりの東京ドームを背景にしていた。交通機関が麻痺しているため、神父は徒歩で東京ドームに向かっていた。彼の教会からは普通に歩けば、一時間程度の距離だった。しかし、雪のために倍以上の時間がかかっていた。 午前〇時近くなって、ようやく東京ドームに辿りつく。明日からは東京ドームでの開幕戦が始まり、巨人・ヤクルト戦が行われる。神父は夢の記憶を頼りに、天使が現れるかもしれない場所を探した。 と、その時―― 一条の光が天から差し、地上に達した。それはほんの一瞬のできごとだった。注意していなければ、カメラのストロボが光ったと思ったかもしれない。しかし、神父は光が天から降りてきたと確信した。 彼は足を滑らせながらも、光の達した場所へと急いだ。 「たしか、このあたりだと思ったが……」 彼は目を凝らして周囲を観察する。 すると路地の一角に、丸く切り取られたように雪が溶けている場所があった。そしてその中心にはふたりの人物が倒れていた。 駆けよった神父は、ふたりを見て驚く。 「子供? 夢はこれだったのか?」 少年と少女は気を失っていた。ふたりは見慣れない格好をしており、金属的な光沢のある宇宙服のようなものを着ていた。 神父は恐る恐るふたりに近づき、少女の頬を軽く叩いた。 「君たち、こんなところで倒れていると凍えますよ」 少女はうっすらと目を開けた。 「うう……」 神父は少年の頬も叩く。 「あうっ」 少年は意識を取り戻し、寒さにぶるっと体を震わせた。そしてガバッと体を起こした。 「のぞみ!」彼は頭を振って彼女を捜した。 「達矢……?」彼女も頭をもたげた。 のぞみは屈んで覗き込んでいる神父にビックリした。 達矢が這って神父とのぞみの間に割って入る。 「あんたは誰だ!?」 神父は怯えた少年と少女に微笑みかける。 「よかった。元気はあるようですね。私は萩原です。こんなところで倒れているから、心配したのですよ。今夜は記録的な大雪ですからね。立てますか?」 達矢は立ち上がろうとした。しかし、足がいうことをきかなかった。月に滞在していたために、低重力で筋力が落ちてしまったのだ。 「くそっ、体が重い!」 「神父様?」のぞみは男性の服装を見ていった。 「ええ、そうです。じつをいえば、夢であなたたちがここにいることを知ったのです。夢の中では天使でしたが、子供のことだったらしい」神父は微笑んだ。 「ここはどこですか? それと何年ですか?」のぞみはきいた。 「おやおや、おかしなことをききますね。ここは東京、完成したばかりの東京ドームの近くですよ。今年は一九八八年、今日は四月七日というか、もう一二時を回ったから八日ですね」 達矢とのぞみは絶句した。 「一九八八年……」のぞみはつぶやいた。 「ちっ、ジャンプポイントが一五年もずれちまった!」達矢は路面を拳で叩いた。 神父は怪訝な顔をした。 「なにか事情があるようですが、ここにいては体が冷えてしまいます。お宅まで送りましょう。住まいはどちら?」 「ええっと……」のぞみはなんといおうかと思案する。 「わたしたちの家はないんです。両親もいません。遠くから……帰ってきたばかりで……」 「家出ですか?」 「いえ……そういうわけでは……」のぞみは言葉を濁した。 神父はため息をついた。 「では、こうしましょう。今晩は私の教会に泊まって、明日詳しいことをおききしましょう。いいですね?」 ふたりはうなずいた。 「さてさて、立てないとなると、車が必要ですね。タクシーが捕まるといいが……。ちょっと待っていてください。大通りに出て、タクシーを探してみましょう」 神父は傘を達矢に渡し、小走りして大通りへと向かった。 「あの神父、來視能力者なのか? それにしても一九八八年か……。とんでもない誤算だったな」達矢はため息交じりにいった。 「でも、近い時代に帰っては来れたわ。それだけでもラッキーだったのよ」 「この時代でなにができる?」 「一四年後には理奈たちが来る。彼女たちが来る前に、できることがあるはずよ」 「そうだな。メッセージを残すとか、おれたちが知ったことを伝えなくてはいけないな」 「そうね。でも、メッセージを伝えるにしても、タイミングが問題だわ。彼女たちが経験することに干渉しないようにしないと」 「ジレンマだな。これから起こることを知っているというのも」 一台のタクシーがチャラチャラとチェーンの音を響かせて、ふたりの近くにやってくる。止まったタクシーから神父が出てきた。 「運良くタクシーが来てくれました。これも神のお導きでしょう。さ、手を貸しますよ」 まず、のぞみが神父に抱きかかえられて、車に乗りこみ、次いで達矢も乗りこんだ。 雪は一晩中、しんしんと降り続いていた。 〈つづく〉 |