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→第二八節「グッバイ、フレンズ」 | 返信 ▲ ▽ |
【Writer:大神 陣矢】 ゴロゴロと何かが鳴っている。 何の音だ。 それは自分の腹の音だ、と気づいた。 ひどく寒い。 なんだ。この。寒さは。 それは、命が流れ出ているからだ、と悟った。 頬に何かがこぼれた。とても、あたたかい。 「達矢」 涙まじりの声。哀しそうな、声。 そんな声は。聞きたくないのに。 「達矢」 手をのばした。あたたかいものにふれた。 それは、いつだってそばに感じていたかったもの。 この手に抱いて、守りつづけたかったもの。 「さよなら」 遠い声。 いつの、誰の、声だったのだろう。 それきり、神崎達矢の意識はとぎれた。 発端は、光輝がもたらした情報だった。 「『J3K』。聞き覚えがあるかい?」 郷田邸の地下室に集まったメンバーたちの顔を見やりつつ、光輝。 「ジェイスリーケー……? ああ、そういやそんな名前のアメリカ大統領がいなかったっけか?」 「バカ。それを言うなら、Y2Jだろ?」 何を言ってるんだ、とアンドルーが呆れ顔で達矢とゲーリーを見た。「大統領はJFKだ。まったく、お前らはムダな知識ばかり貯めこんでいるな」 「ちぇっ、そういうお前さんは心当たりがあるのかよ?」 「いいや。いずれ何かの略称だろうが?」 うなずく光輝。「あるいは、ぼくたちの命運を大きく左右するかもしれない存在だ」 「というと?」 「まずは順を追って話そう。理奈たちに、御子芝さんの荷物をあらためてもらったところ、気になる資料が出てきた。その写しが、これだ」 と光輝が配った用紙には、おそろしく達筆で書かれたリポートが記されていた。 「なにこれ? 全然読めないんだけど……暗号文?」 「ぼくもあまり自信はないな……のぞみ、読んでくれないか?」 ジャネットの抗議に応じて、光輝がうながす。軽く首肯したのぞみは、姿勢を正して朗読をはじめる。 「『J3Kにかんする報告書……そもそも、J3Kとはジャンパー・フロム・3000、すなわち西暦三○○○年代からのジャンパーの意にほかならない』」 「なに……三十世紀ぃ!?」 「静かに聞けよ」 「『彼等は自分たちが三十世紀から送りこまれた使者だと確信しており、自分たちの使命は来たるべき破局から人類を守ることにある、と考えている』 『彼等はもともと通常の市民生活を送る一般人(余談だが、彼女たち――そう、J3Kは女性しかいない――は「一般人」という言葉をひどく侮蔑的に用いていた)にすぎなかったが、ある日とつぜん、自分たちが「三十世紀人」であることに気づいたのだという。肉体は二一世紀人のものだが、精神は未来から送りこまれた三十世紀人のものである、というわけだ』」 「意識のみのジャンプ……!?」 「いいから聞けよ」 「『彼女たちはおなじ「未来の記憶」をもつ同志で集まり、さまざまな活動を行っていた。それは月に一度ばかり集会をひらいて親交を深めるとか、ウェブページやパンフレット、同人誌などを作成して自分たちの主張を訴えるといった、それこそサークル活動の枠を出ないものであった』 『であった、と過去形にしたのは、最近その傾向が変わってきたと見るからである。先ごろ、彼女たちは集会の数を減らし、代わりに合宿と称して数日あまり泊り込みで何らかの行為に没頭しているようだ。それが反社会的なものかどうかは現段階では知るすべがないが、彼女たちの中にはこのため体調を崩したり社会生活に支障をきたしているものもすくなくない』 『私の推測では、新たに強力なカリスマ性をもつリーダーが誕生し、彼女たちをよりカルトな傾向へと導いているものと考えられる』 『さて、彼女たちは本当に三十世紀人であろうか? 私の推測をいうなら、これはただの妄想であろう。若いうちは誰しも「他人と違う」「他人より優れている」ことを望むものだ。未来の記憶をもつ自分たちは超越者である……あってほしい、という願望の具現化とみる』 『が、たとえそうであっても、すくなからぬ人数が同時期に「未来からのジャンパー」と称するというのも解せない話だ。何しろ彼女たちはDPTの存在も知っていたのだ』 『してみると、彼女たちの大多数は妄想であるとしても、ひとり、あるいは数人は、本物のジャンパーである可能性も否定はできない。本格的に密偵してみる価値はあるかもしれぬ』……以上です」 一同は顔を見合わせ、むう、とうめいた。 「御子芝さんは年明けにでも調査を始める予定だったらしいが……残念ながら、それは不可能となった。さてそこで」 と光輝はふたたび一同の顔を見渡した。「どうするね? ぼくは、この一件、なかなか有望だと思うんだが」 「有望ねぇ……」 「どのみち、」と理奈。「ほかにさしあたって手がかりもないんだし、当たってみるのもいいんじゃない?」 「といっても」とキャサリンが反駁した。「うかつな行動は危険だと思うけど?」 「危険は覚悟の上よ。……それとも、怖いわけ?」 「なんですって……?」 まぁまぁ、とのぞみが制止する。「探りを入れてみるくらいなら、問題ないんじゃない?」 「そうだな……。だが、どうやって? 手づるはあるのか」 もっともなアンドルーの疑問に、光輝が答えた。「ああ。これまた御子芝さん情報だが……『J3K』のなかに、この聖天原学園の卒業生がいるらしい」 「なるほどね。それならツテはあるわけだ?」 「ああ。幸いにもというか……君たちは面識もある」 「え…………?」 少女たちは、訝った。 「おひさしぶりです――」 「ふふっ、そんなにかしこまらなくても」 ふかぶかと頭を下げたのぞみに、喫茶店『フォリ・ア・ドゥ 』の一席についた少女は優しげな視線をむけた。 「ここの紅茶はなかなかいけるのよ。いい香りでしょう?」 ええ、とうなずいたのぞみはカップを手に風味を堪能しつつ 「あの、今日はお忙しいところ、お時間をとっていただいてありがとうございます、高原さん」 ふふっ、とほほ笑んだ高原涼子はみずからも紅茶を一口すすった。 高原涼子――先代の『ミス・マリア』であり、のぞみとは学園祭のおりいちどだけ面識があった。 「気にしないで頂戴。かわいい後輩からのお誘いだもの。断われないでしょう?」 そう……御子芝レポートにあった『聖天原学園OGのJ3Kメンバー』とは、彼女のことであった。もっとも御子芝も断定はしておらず、『可能性が高い』とだけしか記していなかったが。 それを知った彼女たちは驚愕したが、ともあれ学園を通じて連絡先を知り、こうして面会にこぎつけたのである。 「さて、それじゃ用件を聞きましょうか? 電話じゃ、ミス・マリアにかんする話だといっていたけれど……?」 「あ、はい、そのですね……」 高原との接触のための口実として、ミス・マリアという立場について相談する、というものを選んだ。もっとも自然なところだろうと思ったからだ。 加えて、彼女は単身で高原に会うことにした。当然、理奈たちは反対したが、 『大勢で会うと、あちらも警戒するかもしれないでしょう?』 という主張には、うなずかざるをえなかったし、 『これはのぞみが適任』 という認識もあった。のぞみは男女を問わず、人好きがするところがあるし、一見気弱そうにも見えるから、相手も油断するだろう――というわけだ。 「わかった。まかせるわ。……でも、無茶はしないでよね?」 理奈は釘をさした。のぞみが見かけによらず、つよい意志の持ち主であり、ともすれば突出しがちなところすらあることを彼女は心得ている。 「うん。了解」 のぞみはにっこりほほ笑み、うなずいてみせた。 ……そんなやりとりがあったわけだが、高原と言葉を交わすうち、のぞみはおもわず任務を忘れそうになるほど、彼女の挙措に惹かれるところがあった。 年齢的にはほんの二歳ほどしか離れていないのに、なにげない立ち居振舞いがかもしだす女性らしさ、あでやかさはどうであろう。身近な女性でいえば立原がもつ大人っぽさとも御子芝がもっていた凛然さとも異質な、可憐としかいいようのない香気である。 (こんなひとが、妄想にとらわれたりするものかしら?) のぞみは疑念をいだかずにはいられない。 「……ええ、そうですね。男子生徒からは……その、よく、手紙をもらったりしますけど」 「でしょうね。私も大変だったもの。もっとも、彼氏をつくったら途端に収まってしまったけどね」 「ははあ……」 「桜井さんは、彼氏はいないの?」 「ええ……」のぞみは、苦笑いした。「好きなひとは、いたんですけど……」 「その口ぶりだと、失恋したわけだ?」 「そう……そうですね」 「ごめんなさい、ちょっと無神経だったかしら?」 うつむきがちになったのぞみに、高原が心配そうな声をかける。 「いっ、いえ。もう、平気ですから」 「そう? でも、恋はなんどしてみても……いいものよ。あれほどひとを成長させてくれるものはないのだから」 と微笑した高原は、いたずらっぽくウィンクして、「それなら、うちの弟はどう? 外見はなかなか悪くないわよ――性格はともかく」 「え……弟さん?」 「ええ。聖天原の生徒なんだけど……」 ……小一時間も話しただろうか。高原はしばし中座して、申し訳なさそうな顔で戻ってきた。 「ごめんなさいね、ちょっとこれから用事ができてしまって……」 「あ。いえ、そんなこと。ありがとうございました」 「ふふ、すこしは参考になってくれたらいいのだけれど。またいつでも連絡して頂戴……あ、メールアドレスも教えておくわね。桜井さんのも教えてもらえる?」 「あ、はい。もちろんです……」 こうして、布石は打たれた。 のぞみはそれから日をおかず、何通も高原とメールのやりとりをおこなった。 むろん、最初はごくひかえめではあったが。 しかし、次第にそのやりとりは頻繁になり、内容もまた深度を増していった。 自分の悩みを打ち明けるのぞみに対し、高原は、『自己の清浄化』を説くようになった。 それは、誰しもがもつ悪しき部分、醜い部分、汚れた部分を断てば、清浄で悩みなどない自己を得ることができる。そしてそれを広めることが、結果的に世界をも浄化することにつながる――というもので、それは御子芝レポートにあるところの『J3K』の主張とぴったり合致するものだった。 (彼女が『J3K』のメンバーであることは、まちがいない) とはいえ、このままではらちがあかない。よほどのことがなければ、彼女も機密を漏らしたりはしないはずだ。 (そろそろ、こちらから仕掛けてみようか?) そんなことを考えながら、図書館へ通じる廊下を歩いていたとき。 ふいに、呼びとめられた。 「焦りは禁物だよ、センパイ――」 驚いて振り向いたのぞみが見たのは、壁によりかかった男子生徒だった。 見覚えのない顔……のはずだったが、どこか懐かしい面影がある……。 「あなたは……」 少年はゆらりと歩み出すと、無邪気な笑顔をむける。 のぞみは、知らず、頬が火照るのを感じた。 「はじめまして、ミス・マリア。もっとも、ボクの姉さんとはお友達だよね?」 「姉さん……? あっ!」 このときはじめて、のぞみは気づいた。誰かに似ていると思っていたが……。 「高原さんの弟さん……?」 「えぇ。高原涼樹(すずき)といいます。よろしく、センパイ」 ふたたび、無邪気にほほ笑む涼樹。 のぞみは返事も忘れていた。彼の笑顔に見入っていたのだ。 「やれやれだわ、もう……」 「そうね……」 理奈は自室に寝っころがってぼやいた。 『御子芝レポート』はもとより『J3K』にまつわる情報ばかりではなかった。それ以外にも、なんらかの関連がありそうな報告が多数あったのである。 理奈らは手分けしてその調査にあたっていたが、これまでのところ明解な成果はゼロだった。 「あーあ、八方ふさがりって感じよねぇ」 「そうね……」 「ったくもう、こっちに残された時間はすくないってのに……」 「そうね……」 「ねぇのぞみ、そっちはどんな塩梅?」 「そうね……」 「…………?」 「そうね……」 「って、あたし何にも言ってないんだけど」 「そうね……」 理奈はベッドに腰掛けているのぞみに目を向けた。その視線はうろうろと宙を泳いでおり、それにつれて身体もくらくらと揺れている。 「……のぞみ?」 「そうね……」 「…………」 「やぁ、センパイ」 屋上で物思いにふけっていたのぞみは、ぎくりとして身をこわばらせた。 「高原君……」 涼樹は変わらぬ無邪気な笑みをうかべたまま、のぞみのすぐ隣まで歩み寄っていた。 「考えごとですか? いいですねぇ。美少女の憂え顔というのは。惹かれるものがあるな」 のぞみはすこしうつむいた。その憂色の原因を、いまはいえない。 「そういえば、姉さんは元気ですか」 「え……?」 要領を得ないようすののぞみに、涼樹は朗らかな笑みをくずさず、「ああ……ボクは姉さんとはあまり連絡もとらないもので。寮住まいだし。何をしているやら、ですよ。まァ、それはあちらもおなじだろうけど」 「そうなんだ……」 この姉弟はあまり仲がよくないのかもしれない、とのぞみは思った。 「姉さんもボクも、我がつよいですからね。まあ、きょうだいってのはそんなものでしょうけれど」 そのあたりの機微は、そもそも『きょうだい』という概念のない世界で生まれたのぞみにははかりかねるところだった。 「あれで、姉さんはわりと思いこみが激しいというか……無茶をやらかすところがあるから、やっかいなんですけどね。もし危ういと思ったら……忠告してあげてくれませんか」 「え、ええ……それは、もちろん」 よかった、と涼樹はほほ笑んだ。 いい笑顔だ、とのぞみは思う。弟が姉を思うというのは、こういうものかとも思った。 「優しいのね、高原君は」 照れますねと涼樹は笑った。「それとできれば、呼び捨てにしてもらえませんか。そのほうが、いぃなぁ」 「え……でも……」 「イヤですか?」 「じゃあ……涼樹……」 「あぁ、それそれ」 「もう……」 のぞみはそっぽをむいた。 赤らめた顔を、見られたくはなかった。 闇に、白い影が仄かに浮かんでいる。 神崎達矢は、息をつめてじりじりと歩を進めた。 やがて、おぼろだった影の輪郭がはっきりしてくる。――人間。それも、少女。白衣の少女。 膚が粟立つ。皮膚感覚で、危険を悟った。 と、ほぼ同時に、少女が動いた。 いや、跳ねた、というのが正しい。達矢めかげて、恐るべき勢いで。 「…………ッ!」 すんでで、かわしていた。が、すぐに第二撃がくる、と見越した。 その予測あやまたず、風を切る音が耳を打つ。 「――おおっ」 手にしていた木刀を、跳ね上げる。 カッ、という音とともに、木刀がなかばで寸断される。 湧き上がる怖気に圧されつつも、達矢は体勢を立て直す。 と、その耳に何かが空を切る音。あれは―― 椅子。 パイプ椅子。 「――ッ」 少女はとんぼを打って飛来した椅子を交わし、そのまま飛びのく。 「お前はッ……」 『くす』 少女がほほ笑んだ。一瞬、魅せられる達矢。 達矢が自分を取り戻す前に、その細身は跳躍する。 「待て……ッ!!」 しかし、もとより待つはずもない。膚を刺すような鬼気もいまは去り、達矢はどかりとその場に座りこんだ。 「……無事か、達矢?」 走りよってきたゲーリーに、達矢は仏頂面をむけた。 「いきなり椅子はないだろうが?」 「なんなら、机とかのほうがよかったか」 「……せめてベルトくらいにしてくれ」 「手元にあればな」 肩をすくめて、達矢は手に残った木刀を見た。 切断面はとても人の手で断ったとは思われぬ。 (こいつを本体に食らったら、ただじゃすみそうにないな) いまさらながら、ぞっとした。 「しかし、まさか本当だったとはな。……『白妙(しろたえ)のイヴ』」 「ああ……」 達矢はうめいた。 『御子芝レポート』にあった情報のひとつ、『白妙のイヴ』。 それは尋常ならざる運動能力。そして好戦性をもつ『辻斬り』の噂であった。 ――夜、この界隈を歩いていると突然白衣の少女が現れ、斬りつけてくる。 そんな奇怪な噂が、流れていた。 しかも、狙われるのはきまって、妙齢の女性ばかりだという。 じっさい幾人かの被害者が出ているらしいのだが、あまりに戯けた話のせいか、警察もまともに対応していないらしい。ヘタをすると『かまいたち現象』かなにかではないかという見解まで出てくるしまつだ。 達矢もゲーリーも、初めて聞いたときには『これはさすがにちょっと』と思ったものだが……。 自分たちで目の当たりにしては、疑う余地はない。 『妖怪退治はあんたたちが適役でしょ?』とは理奈の言だが、あれはそんな呑気なものとは思えぬ。 「……似ていた」 「あん? 誰にだ?」 「あ? あ、ああ、いや。どこかイヴに似ていた、と思ってな」 おいおい、とゲーリーは肩をそびやかした。「われらがイヴってのは、こんなケチな相手なのかよ? だとしたらずいぶん物悲しい話だぜ」 「まぁな……」 達矢は口篭もった。 「おい、考え事もいいが、そろそろずらかったほうがよくないか」 「しかし……」 「ま、お前さんがもっとその格好でうろつきたいっていうなら、止めはしないがな」 「……撤収する」 『白妙のイヴ』(これは一般的な名称ではなく、御子芝の命名による)は女性しか狙わないという。それを聞きつけた彼等は、もっとも効果的な手法をもちいた。 「そのドレスを汚しちゃあ、親切な先輩も泣こうってものさ」 「……思い出させるなっ」 そう、達矢が着こんでいたのは、かつて学園祭のおり身につけていたウエイトレスの制服であった。この衣装を借りに行ったときの渡部長の反応を思い出すたび、憂鬱な気分になる達矢である。 「行くか」 「ああ……」 パイプ椅子をかついだ少年と折れた木刀を手にしたウエイトレス姿の少年は肩をならべて帰途につく。 その途上も、達矢の脳裏からは先の少女の面影が去らない。 似ていたのは、イヴというよりも、むしろ…… 『のぞみ…………?』 『血道をあげる』というのはああいうことか、と理奈は思わずにはいられなかった。 ここ数日来ののぞみのことである。 休み時間はおろかときには授業中にすら、メールのやりとりをしているようだし、いつもいっしょにしていたランチもここしばらくはご無沙汰だ。 それだけなら、まあいいが、『イヴの仲間』たちの集まりにすら顔を出さないのには閉口した。 「どうなってるのよ、おたくの相方は――?」 などとキャサリンあたりに指摘されてもぐうの音も出ない。まさか素直に、 「あ、いまちょうど男と逢ってるとこ。いや〜、あの子が年下好みだったなんてぜんぜん気づかなかったわよ。あはははは」 などともいえないではないか。まして、 (達矢やゲーリーの前じゃあね……) 彼らがのぞみに懸想しているのは、はたから見れば明らか過ぎるほどだ(もっとも、当人たちは――のぞみも含めて――まるでそれと自覚していないようだが)。 のぞみに関しては、しばらく様子を見るしかない、と理奈は思っている。しょせん、人間は愛憎の情を殺しては生きていけない。もし、のぞみが自身で本来の道に立ち戻れないのであれば、 (そのときは……) たとえ同志であれ、非情の決断を下さねばならないかもしれない。 そうならないことを、理奈はつよく願った。 のぞみは、足取りもかるく約束の場所へむかっていた。 ――学園裏の森で、逢いましょう。 午後一番にとどいた彼からのメールのせいで、それ以後の授業はまるで上の空だった。 きっと今日は、忘れられない日になるだろう。 そんな気がしていた。 瞬く間に、彼女はやってきた。そして、 見つけた。彼の姿を。 そちらに向かおうとして、ふと、足を止めた。 あれは―― あの、彼によりそっている、影は―― ふたつの影は絡み合い、あたかもひとつの獣のように―― そのさなか、彼が、こちらを見た。 ほほ笑み。 無邪気な、笑顔。 退いた。 ただ、退いた。 つんのめりながら、駆けた。 足が動かなくなったとき、その場にくずおれた。 あの少女。彼と同い年くらいだろうか。 荒い息のなかで、のぞみは、胸中に黒々としたものが宿るのをおぼえていた。 これはあくまで推論だけどね、と前置きして、ジャネットは説明をはじめた。 「『白妙のイヴ』があたしたちの探す『イヴ』と同一人物かどうかはさておいて、『彼女』が襲っているのは、これまでのところ、女性のみ――しかも『一五歳以上の女性』のみというのは興味深いわ」 「それはつまり……?」 「そう。かつて天原祭のとき、失敗したジャンパーたちの『残留思念』ともいうべきものが一種の『場』を構築し、達矢とゲーリーを捕えたことがあった。あるいは、あの事例と無関係ではないのかもしれない」 「というと……まさか、『白妙のイヴ』とは……」 「そう、『使命に失敗した女性ジャンパーの思念』の集合体、ともいうべきものなのかもしれない。これはあくまで推測にすぎないけれど」 「まぁ、それは仕方がないな。……放置しておくのも剣呑だが……」 とはいえ、優先順位でいえば後回しにするべきだ、というのがこの日のミーティングの結論だった。 久しぶりに参加したのぞみは、押し黙ったまま、その論議を聞いていた。 理奈は心配げにその横顔を見た――が、そこからは何も読み取ることはできなかった。 ――のぞみが姿を消したのは、その夜のことである。 「しまった!」 部屋に残された置き手紙を一読したとき、理奈は自分の見通しの甘さを呪った。 手紙にはこうあった。 ――わたしは、わたしの手で、邪悪なわたし、不要なわたしを処分にいきます。 それはまさに『J3K』が説く、『自己の清浄化』にほかならないではないか。 (あたしはのぞみを買いかぶっていた。……いや、甘く見ていた) のぞみはたしかに粘りづよい性質ではあるが、それ以上に、激情家なのだ。 高原涼子の影響、そして今回の失恋事件――これらが、彼女を追い込んだ。 (『白妙のイヴ』とは、わたしのことだ、わたしの、『影』なのだ) そう思い込んだに違いないのである。 部屋からは、御子芝が遺していった武器類が消えていた。 (のぞみ……!!) たゆたっていた。生白い、影。 寸暇の躊躇もなく、手裏剣を放っていた。 「――――ッ」 その白い影は臆せず突出し、飛来物をのこらず弾いた。が、その時点ですでに相手を見失っている。 刃風は、逆袈裟に来た。半歩の間合い。 弾いた。否。弾かれていた。痛烈な斬撃は、痩躯を吹き飛ばし、なおも肉薄する。 「――しゃあぁっ」 ヒトの発するものとは異質な気合一喝、白影はとんぼを打って撥ね退く。 「あなたはわたし」 少女は刀を放った。先の一撃で、甚だしく刃こぼれしていたのだ。代えの太刀に手をかける。 「わたしの影。わたしの、黒い部分。わたしは、あなたを――」 のぞみの手に、白刃がこぼれる。「滅ぼす」 彼女もまた他のジャンパー同様、戦闘技術の訓練は一通り身につけている。なかでも剣術にかけては余人におとらぬ遣い手なのである。 「かぁああっ」 白衣の少女が、吼えた。制服姿の少女は、ゆるゆると間合いをつめてゆく。 ふたたび、白衣が宙に舞った。 抜き打った。 「――げえぇっ」 足を、薙がれていた。のたうつ。冷徹なまなざしで見下す、のぞみ。 太刀を、ふりかざした。 「さよなら」 寸前。 手首を、つかまれていた。 「もう、いいだろ」 「達矢」のぞみは、驚愕の色をみせた。「どうして――」 ウエイトレス姿のまま、達矢はニヤリとほほ笑んだ。 「ここのところ、こいつとやりあうのが日課みたいになっててな……。もっとも、今日は先客がいたわけだが」 「はなして」 「そうしたら、どうする?」 「これを、滅ぼす」 「『これ』? のぞみ、お前、こいつがモノに見えるのか? 意志のない、ただの物体に見えるのかよ?」 達矢は、のぞみの瞳をのぞきこんで、諄諄と説いた。 押し黙るのぞみ。達矢は、ため息混じりに、 「なぁ、のぞみ。こりゃ立場が逆だぜ。いつもなら、お前がおれを止めてくれるはずじゃないか。なんで、おれが柄にもない役回りなんだよ?」 「っ……」 のぞみは、うつむいた。「だめ……だめなのよ。これだけは……この存在だけは……消してしまわないと……」 「影だから? 黒い部分だからか?」 「……そうよ……」 うめくように、のぞみがいった。 「嫉妬ぶかいわたし。ひとの幸福を喜べないわたし。自分が幸せでなくても、ひとが不幸なら耐えられるわたし。『未来』を得たひとたちを呪うわたし。みんな、みんな……いなくなってしまえばいい!」 「もし、そうでも、おれは……いまのお前より、いつものお前のほうが――」 達矢は、のぞみを抱きすくめた。「――好きだ」 のぞみは、息をつめた。それが、ただの親愛の表現でないことは――瞭然。 「達矢、わたし……わたしは……」 「なにも――言うな」 「達矢……」 かさねられた唇を、のぞみは拒みはしなかった。 ふと、わずかな衝撃。 苦い味がした。 それは。 赤い。 達矢の―― 生えていた。生白い手。彼の、腹から。 「――――ッ」 叫び声は、声にならなかった。 「なっ…………」 ゲーリー・ブッシュは、目前の光景に絶句した。 足元に、頭蓋を割られた生白い人影が横たわっている。 見る間に、それは発光し、雲散霧消してゆく。 だが、ゲーリーの視線はその先――街路樹にもたれている人影に吸い寄せられた。 「――達矢!!」 駆け寄って、彼は息をのんだ。 達矢の左脇腹に惨烈な傷痕があり、おびただしい血が流れていたのだ。 「達矢……達矢っ!!」 うっすらと、達矢は目を開いた。虚ろだが、まだ息はある。 わずかに、ゲーリーは安堵した。 「その声……ゲーリー……か。はは……ちょうど、よかっ……た」 「馬鹿、喋るんじゃない――」 「のぞみ……」 「なに?」 「悪いな……抜け駆け、しちまったよ……」 「なにを言っ……てっ!?」 重傷者ともおもわれぬ力で、達矢はゲーリーの腕をつかみ、搾り出すように、言葉を継いだ。 「のぞみを……助けてくれ。彼女は……もう……」 「わかった、わかったから! だから、それ以上――」 「頼む……手遅れになったら……もう、何もかも……」 ゲーリーは瞠目した。達矢の身体が、どんどん透明化してゆく。 「これは……そんな……」 「頼んだ……」 「たつ――」 ゲーリーは尻餅をついた。残された力のすべてで、達矢が押し飛ばしたのだ。 「また……会おうぜ。親友」 一瞬の、閃光。 そののちには……血塗れたウエイトレスの制服だけが残っていた。 呆然とへたりこんでいたゲーリーは、数瞬を経て、かぶりを振り振り立ち上がった。 「野郎……っ」 胸を焼く激情を、すんでで押しとどめる。 「……笑いやがった」 ゲーリーは歩き出す。 今は、自分が出来る最善のことをしよう。 (そうでなきゃあ……) また会ったときに、何を言われるやら、わからないのだから。 おりからの雨が降りしきるなか、ひとりの少女の悄然たる姿がある。 彼女が立つのは――壮麗な屋敷の前。 その門が開き、傘を手にした少女が姿をあらわす。 「濡れてしまったのね」高原涼子がいった。「洗わなくてはね」 はい、と桜井のぞみは、うなずいていた。 「――布石は、打ちましたよ」 「ひどく、雑な手だこと」 「そう、悠長に続けてもいられないもの」 「それはそうだけれど」 「さあて……彼らはどう動くかな? それとも……動かない?」 「…………」 「ともあれ、お手並み拝見といきましょうか――――」 大神 陣矢 mailあり
2002/05/14火02:37 [31] |
→第二七節「ワン・クリック」 | 返信 △ ▽ |
【Writer:水上 悠】 つけっぱなしだったテレビの画面に、なにげなく目を向けた黒井は、突然現れた臨時ニュースのテロップを見て、深いため息をついた。 『米軍がイラクの首都バグダッドに空爆を開始した模様』 すでに予期されていたことだったが、かくたる明確な理由もないまま、本気で戦争をはじめるとは……。アメリカは……いや、アメリカ政府は本気で戦争がしたいだけらしい。 中東の石油の利権を手にしたいという思惑とは別の何かが、本当にあるのだとしても、いったいどこに正義があるというのか? チャンネルを変えようとリモコンを手にした時、定時のメールチェックが始まった。 突然のニュースにネットのトラフィックが増えたのか、それとも数が多いのか、ダウンロードがなかなか終わらない。 CNNにチャンネルを変えると、どこか見慣れた光景が映し出される。 湾岸戦争の時のあれだ。 対空砲火の無数の光、目に見えない敵が落とす爆弾の雨。 既視感にとらわれ、しばらく放心していた黒井を、メールの着信音が現実に引き戻す。 未読27通。 開くまでもない。 『本当になりましたね』 たぶん、そんな所だろう。 二週間前にアップした戦いのイメージのせいだろう。 ただ、黒井は事がこれだけで済むはずがないということを知っていた。 どうしてもアップできなかったイメージがひとつだけあるのだ。 完全な、滅びのイメージ。 以前に見えた、あの決定的とも思えた滅びのイメージよりも、もっと完全なる破壊……。 黒井はふとこみあげてきた恐怖に、悲鳴を上げそうになった。 慌てて自分の口をふさいだが、悲鳴はどこからともなく聞こえてきた。 テレビからだろうか。黒井は耳をふさいだが、悲鳴はやまなかった。 過去に見たことのあるイメージが脳裏をよぎる。 イメージじゃない。繰り返し繰り返し、戦争や滅びといった事柄につきまとう、巨大な原子の雲。 ──核? まさか……。 『米国ワシントン付近で大きな爆発があった模様」 またも臨時ニュースのテロップ。 CNNのキャスターが手渡された原稿に目を通し、顔色を変えた。 大きな爆発……たしかにそうかもしれない。ただ、規模の桁が違いすぎる。 ──本当に、使ったのか? 目を閉じ、脳裏に浮かんだイメージの奥深くに入り込もうとしたが、これ以上深い所へと入り込むことは出来なかった。 ──これが、すべて? 目を開けた。 テレビは一面の青。 すべてがなにか一点に向けて集約しつつあるようだった。 やっと映像が戻った。しかし、CNNではない。 チャンネルと変える。 次も次も、次も……。すべて同じ映像だった。内閣官房長官の姿が映っていた。 『ワシントンがやられたよ』 未読のメールのタイトルに、そんな文字が踊ってる。 いったい誰だ? 自分がこの先に見る光景がなんなのか、ちっともわかっていない。すべてがモニターの奥に広がる、非現実の現実だと思っている。 でも、いったいどこで狂ってしまったというのか? あの子たちからメールが届いた日から? 違う、あの少年がやってきた日から? それも違う。 あの三人の男たち……? いや……すべてがつながっているのだ。 「物事に一定の形なんて存在しない。そんなことはとっくにわかっていたはずでしょ」 少年はいった。 「じゃあ、あの子たちははいったいなんのために?」 「知らなかったの? あの子たちが作る未来は、ここの未来じゃないってこと。あの子たちはあの子たちの未来を作るだけなんだから」 『……現時点で政府が把握しているのは、先ほど申し上げた内容がすべてです』 『核を使ったテロとの情報ともありますが?』 『何度も申し上げますが、現時点で政府が把握しているのは……』 『つまり、報道された内容以上のことは何も把握されていないということですか?』 『大陸間弾道弾が使用されたという情報もあるんですよ!』 そして、ホワイトノイズ。 「やがてすべてが終わりを告げる」 少年は空を見上げた。 黒井は、窓辺にたたずむ少年が見つめる先を見た。 「そして、再生の時を迎える」 光があたりを包む。夜の帳は、どこかへと消えていった。 「イヴは、ここにはいないのか?」 少年に聞いた。 「イヴはもう、ここにはいないのか? それとも、元から存在しなかったのか?」 少年はほほえみ、黒井を見た。 「あなたが居たから、イヴは存在した。でも、あなたが居たから、イヴはここには存在し続けることが出来なかった」 「なんて……?」 「誰も悪くないさ。あの子たちはもうあなたを必要としない」 「なぜ?」 「とっくにわかっていたはずでしょ?」 「違う。何も知らない……」 「そんなはずない。知らなかったら、ボクは見えない」 少年が差し出した手を黒井は握った。 「時が来たよ。あなたには見えるでしょ? 世界の有り様が、ひとつじゃないってこと」 メールの着信。 黒井は目を覚まし、モニターを見つめた。 『黒井様へ』 黒井はメールを開いた。 『貴方の見たイメージのひとつひとつの意味は、決してないわけじゃありません。わたしが目覚めたことによって生じた変化のうちのひとつだったのだと思います。でも、すべてが終わり、新しい世界が生まれました。さっきまでの世界は精算され、すべてはまた、新しいレールの上で未来へと目指し動いています。このメールは、消してしまって下さい。そうすることで、貴方の未来の有り様も、変わります』 読み終えた黒井は、カーソルを削除のボタンの上へと動かした。 本当に、何もかもが変わったというのか? たった一瞬で。 さっきまでの絶望が、たった一度のクリックで終わるというか? カーソルの上で、少年がほほえんでいるのが見えた。 黒井も、それにほほえみを返すとクリックした。 ──カチリ 何かが音を立てて変わった。 水上
2002/05/06月02:32 [30] |
→第二六節「サイレント・ナイト」Part-3 | 返信 △ ▽ |
【Writer:諌山 裕】 「見て、あの稜線には見覚えがあるわ!」理奈は指さした。 乾燥した荒れ地の西に、砂塵に霞む山々の稜線が地平線の上に浮かんでいた。太陽は昇ったばかりだったが、早くも大地を暑く熱し始めていた。 「ああ、たしかに。学園から見えていたものに間違いないな」 ふたりは歩き始めて十日目にして、自分たちが目的地に近づいていることを知った。 「あともうちょっとね!」 「うん。だが、そろそろキャンプした方がいい。陽が昇ってしまった」 「あと数キロよ。このまま行きましょう!」 「理奈。水はもう一口分しかない。昼間の移動はリスクが大きいよ」 「水なら、向こうに着けばなんとかなるわよ。ほら、緑が少し見えるじゃない。あそこまで行けば」 「だめだ。水の確保が先だ。ただでさえ脱水気味なんだから」 理奈は大きくため息をついた。 「わかったわ。あそこの廃屋で休憩ね」 ふたりは崩れた廃屋のひとつに入った。日陰に入ると、ひんやりした空気にほっとする。 「ここで待っててくれ。水を探してくる」 アンドルーは空のペットボトルを数本手に持った。 「あたしも探すわ。もう足はだいぶいいから」 「いいから、君は休んでいろ。オレが行く」 「だって、水や食料探しはあなたばかりじゃない。休みが必要なのはあなたよ」 「オレの方が体力があるからさ。余計な心配をさせないでくれ。君はここにいるんだ」 アンドルーは、なおも抗議しようとする理奈の唇をキスで封じた。 「わかったな?」 理奈はこくりとうなずいた。 二学期の終業式を終えて、生徒たちは悲喜こもごもの表情で下校していく。明後日のクリスマスイブに恋の花を咲かせようと期待するものもいれば、受験を控えて短い冬休みに最後の追い込みをと意気込むものもいる。 のぞみは彼の姿を捜していた。体育館での式では、彼の姿を見かけていた。 葉がすっかり落ちてしまったポプラ並木を、寮へと小走りしていく。やがて寮にたどりついたが、彼の姿はなかった。 (またどこかに行ってしまったのかしら?) 彼女は寮の前でしばらく待ってみる。 そこへ御子芝がやってきた。 「のぞみ? 誰か待っているのか?」 「そうなの……。あの……、高千穂さんはどこに行ったか知らない?」 「ああ、あやつも式には出ていたな。彼に用か?」 「うん、ちょっと」 のぞみは落ち着きがない。 「ふむ、おそらく寮の裏手のケヤキ林だろう。よく木に登っている」 「ありがとう」 のぞみは走りだしていた。 ほどなくのぞみは、木の上にいる高千穂を見つけた。 「高千穂さん!」 空を見あげていた高千穂は、物憂げな顔を彼女に向けた。 「なんだ? 桜井」 「お話ししたいことがあるの」 「話をしたければ、ここまで上がってこい」 「わたしが?」 「そうだ。できないのなら、俺の時間を邪魔しないでくれ」 「登ります!」 のぞみは太い幹に手がかりを探して、登り始めた。 「おやおや、よほど大事な話らしいな」 高千穂は苦労しながら木登りをする彼女を見つめた。彼のいるところまでは、高さにして七〜八メートルはある。 のぞみはなん度か滑り落ちそうになりながらも、息を切らせて彼のいる枝に手を掛けるところまで登った。高千穂は彼女の腕をつかんで、最後のひと登りを手伝った。 彼女は枝に腰を下ろし、片腕を幹に回した。 「なに用だ?」高千穂はぶっきらぼうにいった。 「ええっと……、はぁ、はぁ、あの……はぁ、はぁ……」 「あわてるな。落ちついてからしゃべれよ」 のぞみは深呼吸を繰りかえした。 「ここで、なにしてるんですか?」のぞみはためらいがちにいった。 「ここからだと、街がよく見える。もうすぐ見納めだからな。いずれはなくなってしまう風景だ。記憶にとどめているのさ」 「やっぱり、また行っちゃうの?」 「ああ、おそらく。この時間には長くいすぎている。もっとも、放浪癖のある俺には向いている生き方だがな」 「どうしても、行っちゃうの!?」 「俺の意志には関係なく」 「転移してしまうということ!?」 「ここに来るまでは、もっと短いサイクルだったんだ。なぜかこの時代には長くいる。話というのは、そのことか?」 のぞみは首を振った。 「では、なんだ?」 思いつめた表情の彼女は、言葉を絞り出そうとしていた。 「あの、あの……」 のぞみは幹につかまっていた手を離した。バランスを失った彼女は、落ちそうになる。 「きゃっ!」 高千穂は彼女を抱きよせて、落ちるのを防いだ。のぞみは彼にしがみついていた。 「気をつけろ」 「ごめんなさい……」 のぞみは高千穂の顔を間近で見つめる。 「高千穂さん……、わたし……、あなたが好きです!」 高千穂は目を丸くした。そして首を振って微笑んだ。 「なにかと思えば、そんなことを。俺みたいなひねくれ者が好きとはね」 「わたし、本気です!」 のぞみの目は潤んでいた。 「ああ、そのようだな。だからどうしたい?」 「その……、あなたの気持ちを知りたくて……」 「俺の気持ち? なら、答えてやろう。俺は君のことをなんとも思っていない。以上だ」 「わたしじゃ、ダメですか?」 「なにが?」 「あなたのペアに……」 高千穂はからからと笑った。 「わたし真剣です!」 「笑ってすまない。気を悪くするな。君のことを笑ったわけじゃない」 彼は大きなため息をついて、空を見あげた。のぞみは彼の顔に、深い悲しみが浮かんでいるように感じた。 「気持ちはうれしいが、君の求めていることは不可能だ」 「どうしても?」 「ああ、たとえ俺が君に惚れていたとしてもだ。なぜなら、物理的に不可能だからだ。俺は君と束の間の時間を共有しているが、いずれは別の時空に転移してしまう。ペアにはなれないんだよ」 「束の間でもいいわ!」 高千穂は大きく首を振った。 「だめだね。もし君をペアに選ぶほど惚れているなら、悲しませるようなことはしたくない。それに……」彼は言葉を切った。 「なに?」 「ここだけの話だが、俺は御子芝とペアの約束をしているんだ。あいつはいまだ首を縦に振ってはいないがな」 のぞみは予期していた言葉をきいて、肩を落とした。 「やっぱり、御子芝さんが好きなのね」 高千穂は長い時間返事をしなかった。 「ああ、俺はあいつが好きなんだ。ほかの誰よりも。彼女だけが、俺と時空を共有できるんだからな」 「うん……、それ、わかるわ」 高千穂はのぞみの肩を叩いた。 「なぁ、桜井。もっと周りをよく見ろ。俺なんかよりも、おまえを必要としている奴がいるじゃないか。身近すぎて気がついてないだけだぜ」 木の上のふたりの会話を、建物の物陰で御子芝はきいていた。 (高千穂……。おまえというやつは……) 御子芝の頬を一筋の涙が流れていた。 変わり果てた天原学園の姿に、理奈とアンドルーは落胆していた。当然予想していたことではあったが、かろうじて学園の面影が残っているだけだったのだ。 「地下室を探そう」 理奈は重い足取りで砂塵と雑草で覆われたかつての学園内を歩いていく。多様な草木が美しかった天原庭園は見る影もなく、名も知れぬ背の高い雑草と茨が主となっていた。郷田邸は、こんもりと盛りあがった蔦草のかたまりと化していた。 ふたりは入口を探す。 「このへんじゃないかな?」 理奈は蔦を掻き分けて、地下への入口らしきものを探しだした。そこには地下に通じる縦穴があった。エレベーターのあった場所である。 アンドルーが小石を落としてみる。しばらくしてチャポンと水音がした。 「下には水がたまっているようだ。地下室も水浸しかもしれないぞ」 「とにかく、降りよう。少なくとも水は得られるわ。あたしが先に行くわ」 理奈は茎の太い蔦を手がかりにして、縦穴を降りていく。アンドルーは心配そうに見守る。彼女の姿はやがて影の中に入り、見えなくなった。 「理奈? 大丈夫か?」 「平気よ、これくらい」彼女の声は反響してエコーがかかっていた。 しばらくするとズルッと滑る音がして、理奈が叫んだ。 「きゃっ!!」 ドボンッ!!――大きな水音。 「理奈――!!」 アンドルーは急いで自分も縦穴を降り始めた。 「理奈!?」彼は叫ぶ。 「ぶはー! 落っこちた! でも、大丈夫よ! 足が滑ったの。注意して」 アンドルーは慎重に降りていく。やがて暗がりの中に入って、手がかりが見えにくくなった。 「そこへん滑るから注意して。あと、数メートルで水面に達するわ」 暗がりに目の慣れた理奈が指示した。 「そのへんから飛びおりて。もう下は水たまりだから」 彼はいわれたとおりに飛びおりて、水たまりに飛びこんだ。水深は胸元あたりまでで、足は底についていた。 「ちょっと気持ちよくない? 水浴びなんて久しぶり」理奈は陽気にいった。 「のんきだな。心配したんだぞ」 「見て」 理奈は水面から少し上を指さした。そこには閉じられた金属製のドアがあった。エレベーターのドアだ。 「開くかしら?」 「やってみよう」 ふたりはドアを開けようと、中央部分から左右に引っぱる。しかし合わさった扉はびくともしなかった。錆びついているうえに、砂が入りこんですき間を埋めてしまっているのだ。 理奈は足下になにか引っかかるものがあることに気がついた。彼女は息を吸いこむと、水に潜った。 「理奈!? 無茶するな」 理奈は手探りで引っかかったものをつかんだ。彼女がつかんで拾い上げたものは、一メートルほどのパイプだった。 「使える?」 「いいかもしれない」 アンドルーは扉の合わせ目にパイプを差しこみ、グイグイと押した。やがて少しだけすき間が開いた。さらにパイプを押しこむと、今度はテコの原理でパイプを左右に振る。扉はギシギシときしみながら、少しずつすき間を広げた。 ほどなくすき間は三〇センチほどになった。 「あたしなら通れるかも。痩せたしね」 理奈は扉に手を掛け、体を横にしてねじ込んでいく。アンドルーは彼女を持ちあげて支えた。 理奈は擦り傷を作りながらも、中に入ることができた。彼女はドアをもっと開けるために、中からドアを押し広げた。そして、アンドルーも水から上がって、地下室へと入った。 地下室は密閉されていたにもかかわらず、砂が降り積もっていた。電磁波暗室は剥がれ落ちたパネルが積み重なり、不思議なオブジェとなっていた。 「彼らは実験に成功したのかな?」アンドルーはため息交じりいった。 「そう願いたいわね」 「さて、これからどうする? 目標は達成したが……」 「とりあえず、ここでキャンプしましょ。ほかに行くところはないのだし」 「そうだな。まず、地上に出るための階段が使えるか確認しよう。いちいち縦穴を上り下りするのは面倒だ」 「あたしは少し部屋を片づけるわ」 ふたりは作業に取りかかった。 地下室の電磁波暗室は、熱気と緊張感に包まれていた。一二〇台のコンピュータの発する熱気もあったが、集まった彼らの熱気も高くなっていた。 クリスマスイブの日――。 部屋には関係者が全員集まっている。 指揮を執っているのは光輝とジャネットだ。ふたりをサポートするキャサリンは、システムオペレーターとして端末についてる。達矢とゲーリーと高千穂はずらり並んだラックの間を点検して回る。のぞみと御子芝は、二台の大型ディスプレイの前に陣取って、実験の経過をモニターする。菅原は補助電源としての発電機を担当している。 立原と郷田は、作業そのものに手は出せないが、彼らの様子を見守っていた。 「一番から四〇番まで異常なし」達矢は大声でいった。 「四一番から八〇番までもオーケーだ」ゲーリーは腕を回した。 「八一番から一二〇番、問題なし」高千穂は淡々といった。 「発電機、準備よ〜し!」菅原は高揚していた。 光輝とジャネットは顔を見あわせてうなずいた。 「発電機、回してください」光輝はいった。 「発電機、始動!」菅原は大仰にいった。 屋外に新たに設置した五台の自家発電機が始動し、エンジンの駆動する振動がくぐもった音を響かせる。実験を開始するときには、外部からの干渉を最小限にするために、通常の電力は使わず、自家発電機を使うのだ。 菅原は電力メーターが設定値に達するのを確認する。 「電力、設定値に到達!」 「コンピュータ、一時終了!」 光輝の合図でキャサリンは、すべてのコンピュータの電源をオフにする。部屋が徐々に静かになった。 「外部電源オフ! 内部電源に切り替え!」 光輝は指示し、菅原は配電盤を切り替えた。一瞬、照明が消えて、再び点灯した。 「コンピュータ、起動!」ジャネットは起動シーケンスを実行した。 静かだった室内が、一二〇台のファンの回る音で満たされていく。 「システム、再起動中」とキャサリン。 「三二番と八九番が再起動してないわ」のぞみは報告する。 達矢と高千穂が該当するマシンのところへ駆けよる。 「リセットした」と達矢 「同じく」高千穂も応えた。 「各モジュールのシステムリンクを確認中」御子芝はディスプレイを見つめる。 ディスプレイには一二〇台のマシンの稼働状況が表示される。同じ仕様のマシンではあるが、それぞれに微妙なばらつきがある。のぞみと御子芝は、ばらつきを補正しながら、ベストな状態を維持しようとする。 「なんとか安定しているわ」のぞみはいった。 光輝はうなずいた。 「では、テストプログラムを走らせる」 「テストプログラム、実行」キャサリンはキーを叩いた。 キャサリンの前のディスプレイに複雑な幾何学模様が現れ、回転しながら形を変えていく。 「テストプログラムは正常に実行されているわ」 「いよいよね」ジャネットは光輝を見つめる。 「ああ、これでうまくいけば……」 「あなたとあたしはが作ったんだから、ぜったいうまくいくわ」 「そうだね」 光輝はゴクリと唾を呑みこむ。 「メインプログラム、第一シーケンス実行」 「実行します」キャサリンは答えた。 ディスプレイは暗くなり、中央に小さな光の明滅が起こる。 「コンピュータの負荷率、五パーセントアップ」のぞみはパラメーターを読み上げた。 「第二シーケンスに移行」と光輝。 キャサリンは指示を実行する。 「第二シーケンスを実行中」 「負荷率、二五パーセントにアップ!」のぞみは厳しい口調でいった。 「第二で二五パーセントか? 大きすぎるな」光輝は不安になった。 「まだ二五パーセントよ」とジャネット。 光の点は渦を巻きながら、広がっていく。それは宇宙創造の瞬間をシミュレーションしているのに似ている。 「第三シーケンスに移行」 「第三シーケンス実行」 「負荷率さらに上昇! 四五パーセント」 「第五ロット、五一番から六〇番の処理能力が低下している。発熱が原因だ」と御子芝。 「了解、冷却液体窒素を流す!」ゲーリーは対応する。 「第八、九、十ロットも同様よ!」とのぞみ。 「よし、全ロットのパイプに冷却剤を流そう!」達矢は叫ぶ。 「ほぼ安定を取り戻したわ」 「第四シーケンスに!」 「実行中」 「負荷率、七〇パーセントに増大!」 「まだまだいけるわ!」 「やるしかなかろう」 「自家発電機、フル稼動!」 「第五シーケンス、いけるか!?」 「第四シーケンス、クリア! いけるわ!」 「第五シーケンスに突入!」 「負荷率九五パーセント! もうあまり余裕はないわ!」 「どうする!? 中止か!?」達矢は怒鳴った。 「やるのよ! あと二段階なんだから」 「行ってみよう! 第六シーケンス!」 「実行中!」 「時間変数の兆候を確認! もうちょっとよ!」のぞみは叫んだ。 「電力が不安定になった! モーターが焼き切れるかも!」 「ぶっ壊れる前にやってしまえ!!」ゲーリーも叫んだ。 「第七シーケンス!! 最終段階だ!!」 「第七に突入!」 「時空確率の場が出現!! 成功よ!!」 「まだだ!! 場が安定してない!!」 「ちょろちょろしないの!! 捕まえられない!!」キャサリンは場を捕まえようとしていた。 「メッセージ送信用意!!」 「ターゲット補足!! 急いで!! 消えてしまいそうよ!!」 「メッセージ送信中!! あと十秒保たせて!!」のぞみはいらいらしながらメッセージが送信されるステータスバーを見守る。 「もうすぐ冷却剤が空になる!! くそっ、もっと用意しとくんだった!」 「三番発電機がぶっ飛んだ!!」菅原が壁を拳で叩く。 「照明と空調を切断! 電力はコンピュータ優先に!」 室内は暗くなり、ディスプレイが明かりとなる。 次の瞬間、ラックの中のコンピュータから火花が飛んだ。 「十二番ダウン!」 「カバーするわ!」 再び火花。 「八六番死んだ!」 「メッセージ送信完了!」 「やったぜ!!」達矢はガッツポーズをした。 彼らは歓声を上げた。 「ちょっと待って!! なにか変だわ!!」キャサリンは叫ぶ。 「どうした?」光輝はディスプレイを覗きこむ。 「時空確率の場が消えずに残ってるのよ!! こんなことってある? むしろさっきよりも大きくなってる!!」 「二番発電機沈黙!! もう電力を維持できない!!」 しかしコンピュータは稼動を続けていた。 「どこから電力が入ってるんだ?」光輝は首を傾げる。 「負荷率、九九パーセント!! もう限界よ!!」 それでも場は成長を続け、より安定した状態になっていた。 コンピュータから立て続けに火花があがり、煙が立ちのぼる。達矢とゲーリーは消化器をもって煙を上げるコンピュータに吹きかける。 「おい!! 三分の一は死んでるぜ!!」 「どういうことだ!? なぜ場は安定しているんだ!?」光輝は苦悩する。 「外部から……、場にエネルギーが流れこんでるのよ!!」ジャネットは推測した。 「外部って、どこだよ?」 御子芝が口をはさむ。 「未来からだ。それ以外にない」 「というと……、ほくらのメッセージが届いて、開いた時空の場に未来からエネルギーを注入しているってことか?」 「そう考えるが妥当……、ううっ!!」 御子芝は顔を歪めて、その場にくずおれた。 「御子芝さん!!」のぞみは両手で口を覆った。 御子芝の体は光を発し、姿が薄れ始めていた。 「そうか、そういうことか……。未来から注入されたエネルギーに……触発されて……私の時空確率も……活性化しているらしい……」御子芝は苦しげにいった。 「樹!!」 高千穂は体を引きずりながら、御子芝の元へと歩みよっていく。彼の体も御子芝と同様だった。 「高千穂さん!!」のぞみは悲痛にいった。 「転移してしまうの!?」 「そう……だ……。お別れだ……諸君」高千穂は引きつった笑みを浮かべた。 「離れるんだ……君たちも……巻きこまれるぞ!」御子芝は膝立ちになって、手を振りはらった。 高千穂は御子芝の体を抱き起こす。 「樹……、俺はずっとおまえと一緒だ……」 「ああ……そのようだな……腐れ縁というやつかな……涼……」 ふたりはしっかりと抱きあっていた。 「御子芝さん! 高千穂さん!」のぞみは泣いていた。 「さらばだ、のぞみ……みんな。またいつか会えることを願っているよ……」 「そんなの! イヤ――――!!」のぞみは絶叫した。 「それが定めだ……六道輪廻というやつだな……。君たちの――」 ふたりの姿は微かな残像となり、言葉とともに消えていった。 あとには丸くえぐれた床が残った。 誰もが呆然としていた。 「まだ終わってないみたいよ」キャサリンが注意をうながした。 「なんだって?」光輝は我に返った。 「見て、場はまだ存在しているわ。それもいまにも弾けそうなほどに」 「そんなバカな!! これじゃ物質転送が可能なほどの場じゃないか!!」 「問題はそこよ。時空確率転送機はもどきじゃなくて、本物になってるのよ」 彼らは次になにが起こるのか、予想すらできなかった。 地下室をねぐらにしての生活は、平穏なまま一週間が経っていた。学園の周辺にはわずかだが緑があり、丘のふもとには小さな川と池があった。水と食料はふたりには十分すぎるほど手に入れることができた。 やつれていた理奈とアンドルーだったが、過酷な状況の中にしては健康を取り戻していた。 理奈は自分の体の変化にも気がついていた。生理が止まっていたのだ。最初、それは老化現象の始まりかと疑ったが、肉体的には健康そのものであり、むしろ以前よりは活力に満ちていることが矛盾していた。老化による閉経ならば、もっと衰えるはずだからだ。 彼女は妊娠したのではないかと思っていた。それは驚きと同時に喜びだった。しかし、アンドルーに打ち明けたものかどうかは迷っていた。 「今日は、たしかクリスマスイブよね」理奈はひとりごちた。 彼女の隣でアンドルーが寝返りを打った。 理奈は彼を起こさないようにして、そっと毛布の中から出た。そして消えかかっているたき火に薪をくべて、火の勢いを強くする。 昨日取ってきた魚に串を刺して、火にかざす。朝食の準備だ。 「ううっ……」彼女は突然吐き気をもよおした。 (間違いないわ。あたしは妊娠してる!) 「ん? どうした、理奈?」アンドルーは目を覚ました。 「起こしちゃった? なんでもないの」 「気分でも悪いのか?」 「平気よ。気にしないで」 理奈は微笑む。 「今日はクリスマスイブよ。なにかお祝いしなくちゃね」 「クリスマスツリーでも作るか?」 「うん、それいいかも」 理奈は再び吐き気を感じた。口を押さえてしゃがみこむ。 「理奈!?」 彼は起きあがって駆けよった。 「大丈夫……」 しかし吐き気はひどくなり、同時に目眩を覚えた。目の前に星が飛んでいた。 「あうっ!……、これは!!」 アンドルーも頭を押さえた。 「転移の前兆か!?」 「まさか……、また!?」 「ちっ!! やっとここの生活にも慣れてきたというのに!!」 「今度はどこに飛ばされるのかしら!?」 「ここよりましなところをだったら、どこでもいいさ!!」 「あなたと離れたくないわ!!」 ふたりは強く抱きしめあう。 「離れるものか! ぜったいに!!」 「アンドルー――!!」 「理奈!!」 なすすべもなく、ふたりは時空の確率に翻弄されるのだった。 「時空確率の場は臨界点に達するぞ!!」光輝は叫んでいた。 「どうするの!?」ジャネットも叫ぶ。 「どうしようもない!! 逃げるには時間が――」 激しい光の爆発が起こり、地下室は地震のように激しく揺れた。立っていたものは床にはいつくばる。小さな爆発音が連続して、コンピュータのほとんどは機能を停止する。 そして――。 突然の静寂と暗闇。 彼らは恐る恐る顔を上げて、なにがどうなったのかと周囲を見まわす。 室内には煙が立ちこめている。 「みんな? いるか?」菅原はいった。 「光輝?」とジャネット。 「ここだよ」 「おれはここだ」達矢は立ち上がった。 「なんだったんだ?」とゲーリー。 「わたしも大丈夫」キャサリンの声。 「立原先生?」菅原は心配声でいった。 「先生は気絶しているが大丈夫そうだ」郷田が答えた。 「のぞみは?」達矢が叫んだ。 「わたしは……ここよ」 「みんな無事か。よかった」菅原は胸をなで下ろす。 「のぞみ? のぞみなの?」 その声に誰もが驚いた。 「理奈!? 理奈なの?」 「ええ、そうよ。ここはどこ? いつなの?」 「理奈!! 戻ったのよ!! 学園に!!」 「なに? ほんとうか?」アンドルーはいった。 「アンドルー!! アンドルーなのね!!」キャサリンは喜んだ。 「ああ、生きてるみたいだな」 「ちょっと待ってくれ。電源を切り替える。明かりが点くだろう」 菅原は手探りで配電盤を探し、外部からのラインに切り替える。やがて照明が灯った。空調も運転を再開し、煙を換気していく。 姿が見えるようになって、御子芝と高千穂が消えた場所に、裸の理奈とアンドルーがいた。 のぞみは駆けよって理奈を抱きしめる。 「よかった!! 理奈! ほんとうによかった!」 「ああ、のぞみ! また会えてうれしいわ!」 キャサリンはアンドルーに駆けよって抱きしめていた。 「心配かけたな。どうやってオレたちを戻したんだ」 キャサリンはうれしさでヒクヒクと泣くばかりだった。 「それが……わからないんだ。未来からの干渉だと思うんだけど、ぼくたちはなにもしてないんだ」光輝はいった。 「ねぇ、なにか着るものを頂戴よ。これじゃ恥ずかしいわ」理奈はのぞみを抱きしめたままいった。 達矢が椅子の背にかけてあったジャンパーを理奈に渡す。 「ほらよ。ずいぶん大変なところにいたらしいな」 「話せば長い話よ」 「アンドルー!!」 突然、ジャネットは叫んだ。 「くそっ!! まただ!!」 アンドルーとキャサリンの姿が光に包まれ始めていた。 「キャサリン!! オレから離れろ!!」 アンドルーはキャサリンの抱擁を振りほどこうとするが、彼女は離れなかった。 「いやよ!! あなただけでは行かせない!!」 「アンドルー――!!」理奈は手を伸ばして彼を引き留めようとした。 「理奈を近づけるな!!」 のぞみは理奈を抱きしめ、さらに達矢が加勢した。 「いやよ!! あたしをひとりにしないで!!」 アンドルーはなにごとかを口にしていたが、声は届かなかった。消える間際に、彼は笑みを理奈に送っていた。 フッ――と、アンドルーとキャサリンは空気の中に消える。パサリとキャサリンの着ていた制服が、その場に落ちた。 喜びも束の間、ふたりはいずこかへと転移してしまった。 「あああ――、なんてことなの!! アンドルー……」 理奈は泣き崩れた。 愕然とする彼らの背後で、ブンッと風のうなる音がする。突風が音に吸いこまれるようにして吹き、次の瞬間には逆方向に吹きかえした。オゾンを含んだ金属的な臭気があたりに立ちこめた。 「今度はなんだ!?」ゲーリーは辟易した怒鳴り声を上げた。 「そんなに怒鳴るなよ、ゲーリー」 声の主はアンドルーだった。彼の隣にはキャサリンがいた。ふたりは揃いのカーキ色のジャンプスーツを着ていた。 「ア……、アンドルー?」理奈は絶句する。 「ドンピシャだったな。そうではないかと思っていたが、確信はなかったんだ」 アンドルーはゆっくりと理奈の元へと歩みよる。そして彼女を抱きしめた。 「会いたかったよ、理奈。戻ってくるために三ヶ月もかかってしまった」 「三ヶ月?」 「ああ、オレとキャサリンは二六〇九年のアジア・コロニーに飛んだんだ。ちょうど、オレたちがこの時代にジャンプした直後だった。自分たちで破壊した時空確率転送機を復旧するのに、三ヶ月かかってしまったというわけさ。皮肉な話だが」 「どういう……ことなの?」 「簡単にいえば、オレとキャサリンが転移してしまったのは、未来からオレたちがここに戻ってきたために、玉突きのように弾きだしてしまったようなんだ。ニワトリが先か卵が先かみたいな問題だが、この時空ポイントは輪になっていたんだ」 光輝はパンッと手を叩いた。 「そうか! じゃ、ぼくたちのシステムにエネルギーを送りこんだのは君だったのか!」 「そういうことだ。開いている時空の穴を特定することはそれほど難しいことではなかったからな。お膳立てをしたわけだ」 理奈はアンドルーの顔を自分に向けさせる。 「解説はもういいわ。キスして」 キスするふたりを、キャサリンは複雑な微笑みで見つめていた。 「わたしが気絶している間に、いろいろと複雑なことがあったみいね。せっかくのクライマックスを見逃してしまったわ」 湯船につかった立原はこぼした。 彼女たちは藤乃湯に来ていた。さっぱりしたいという理奈の要望で、温泉に入ることにしたのだ。 「ああ、いい気持ち! 向こうでは綺麗な水で体を洗うこともできなかったのよ」理奈はゆったりと体を伸ばして湯に浸っていた。 「ねぇねぇ、キャサリン。未来に戻ってどうだったの?」ジャネットがきいた。 「もう大変。説得するのにずいぶんかかったわ。戻ってきたジャンパーは初めてだったから。彼らはわたしたちを引き留めたがったけど、再び過去にジャンプすることは譲らなかったの」 「どうしてこっちに戻る気になったの? 未来にいれば自分たちの生活に戻れたのに」理奈は問いかけた。 キャサリンと理奈は見つめあった。 「彼は……どうしても戻りたがっていたわ。あなたのために。わたしも戻りたかった。だって、こっちの世界の方がよかったの。それにわたしは……」 キャサリンは言葉を濁した。 「なに?」 「これはまだ内緒にしてほしいんだけど……」 「いいわよ。女同士なんだし」 「わたし……、アンドルーの子を身ごもってるの。理奈……、たぶん、あなたもよね?」 「ぶっ!」立原は驚いて湯船の中にずり落ちた。 「ちょっと! あなたたちは!」 理奈はキャサリンの告白をきいても驚かなかった。三ヶ月間、アンドルーと一緒だったのだ。彼のことが好きな彼女なら、そうなっていても不思議はないと思っていた。 「やっぱり……。ええ、私も妊娠してるわ。彼は知らないけど」 ジャネットがそっと手を挙げた。 「あたしも仲間に入れてよ」 「え?」のぞみは目を丸くした。 「あたしも妊娠したみたい。相手は光輝だけど」 立原は両手で頭を抱えた。 「ああ! なんていうことなの!」 「なんだ……、まだなのは、わたしだけなのか……」のぞみは口を尖らせた。 「もうそれ以上いわないで! 頭がくらくらするわ!」 少女たちは微笑み、やがて快活に笑い出した。それは喜びを分かちあう笑いだった。 郷田邸のリビングでは、クリスマスパーティーの準備が進められていた。藤乃湯から帰ってきた少女たちが、即席のパーティーをしたいと言い出したからだった。 少年たちも賛同して、郷田邸に押しかけたのだ。立原と菅原も参加していた。 パーティーを開くことの、本当の理由を知っているのは女性たちだけだった。男たちはクリスマスイブだからという理由で納得していた。 食卓には出前の寿司やピザが並べられ、ロウソクが灯された。 キャサリンとのぞみが中心になって祈りをとなえる。 「今日、こうしてみんなが一緒にクリスマスイブを迎えられることを、主に感謝します。御子芝さんと高千穂さんがいないのが寂しいですが、ふたりにも主のおぼし召しがありますように。アーメン」 「アーメン」全員が復唱した。 そして、きよしこの夜を歌う。 ♪ きよしこの夜 星はひかり 救いの御子(みこ)は まぶねの中に 眠り給う いと安く きよしこの夜 御告げ受けし 牧人(まきびと)たちは 御子の御前に ぬかずきぬ かしこみて きよしこの夜 御子の笑みに 恵みの御代(みよ)の 朝(あした)の光 輝けり 朗らかに 静かな、安らいだ夜が、それぞれの想いを満たしていた。 |
→第二六節「サイレント・ナイト」Part-2 | 返信 △ ▽ |
【Writer:諌山 裕】 理奈とアンドルーがサバイバル生活を始めて、三五日が経っていた。三五日生き延びたというのが正しいかもしれない。 昼間の紫外線と熱さを避けて、朝方と夕暮れに活動し、食べられそうな植物や果実を探した。ときにはヘビやトカゲを捕まえて飢えをしのいでいた。飲み水については心配なかった。毎日昼過ぎにスコールが降り注いだからだ。ふたりとも体重は落ちていたが、まだ深刻な状態ではなかった。 廃墟の中をさまよううちに、収穫もあった。第一は燃料となる油の缶が残っていたことと、壊れたカメラを見つけたことだ。カメラのレンズは火をおこすのに使った。さらには身につける服の素材も見つかった。長い年月で大部分がボロボロになっていたが、車の内装材として使われていたポリプロピレン繊維は、耐久性に優れていたため使えるものがあった。 ふたりは引き剥がした布地に穴を開け、つなぎ合わせて身にまとった。不格好だが昼間の日射と夜間の寒さを、ある程度は防護できた。 夜にはたき火を絶やさないようにしながら、抱きあって一緒に寝た。ふたりはあとどれだけ生きられるかについては、考えないようにしていた。そして、生きていることを確かめあうように、愛しあった。それは必然だったのだ。 理奈はアンドルーの胸に頬をつけて、彼に抱きしめられていた。 「ねぇ、アンドルー……」 「なんだい?」 「あたしたち、このままでいいのかしら?」 彼は深いため息をついた。 「なにかすべきだな。オレも同じことを考えていた。なんとか飢えない程度には食べているが、嵐が来ればこのささやかな楽園も一変するだろうからな」 「あたし、考えてたんだけど、天原学園のある場所に行くべきじゃないかなって」 「その理由は?」 「特に根拠があるわけじゃないの。もし、みんなの元へ帰れるチャンスがあるとしたら、それは学園の場所じゃないかと思うの。みんなはDPTもどきを作っているはずだわ。もし、未来に通信が送れるとしたら、あたしたちのことも伝えるはずよ。そうしたら、あたしたちがどこに飛んだのかを探すかもしれない。だとしたら、学園の場所は信号の発信源でもあるはずよ」 「あるいは、オレたちが消えた都庁ビルかもしれない。消えた場所も有力な候補だぞ。オレはその可能性の方が高いように思う」 「じゃあ、二手に分かれる? そうすれば可能性は高くなるわ。どちらかが助かれば、もう一方を助けられる」 アンドルーは考えこんだ。 「合理的な結論だな。しかし……」 「なに?」 「学園まで直線距離で四〇キロはある。地図もなしに、荒れた大地をひとりで行けると思うのか? 無理だよ。君をひとりにはできない。オレがひとりになるのも嫌だな。もし、どちらも空振りに終わったとしたら、孤独に死ぬことになる。そんな結末が望みか?」 理奈は首を振った。 「あたしだって、イヤ! あなたを失いたくない」 アンドルーは理奈にキスをする。 「だったら一緒に行動しよう」 「ここに残るということ?」 「いいや、君の意見に従おう。女の直感なのだろう?」 「それを信じるわけ?」 「ほかになにを信じられる?」彼は微笑んだ。 「けっこういい加減なのね」 「そういうもんさ」 理奈も微笑んだ。 「もう一度、抱いて」 翌朝、ふたりは日の出前に瓦礫の街を出発して、天原学園のあった場所――西へと向かった。 それはふたりが想像していた以上に、過酷な道のりとなるのだった。 理奈とアンドルーが消えてから一ヶ月が過ぎ、十二月になっても比較的暖かい日々が続いていた。今年は春の訪れが早く、駆け足で夏になった。夏の盛りであるはずの七月〜八月は、予想されたほど暑い夏にはならなかった。年間を通して気温の差が縮まっているのが近年の傾向となっていた。 チームリーダーのふたりがいなくなっても、彼らの学園での日々は、立ち止まることなく過ぎていく。中心的な存在だったふたりの喪失感は、チームの面々に変化を促していた。対立関係は希薄になり、より親密な関係へと発展した。 達矢とゲーリーも例外ではない。似たもの同士のふたりは、スポーツで意気投合し、野球やサッカーで競い合い、信頼関係を築いていた。ふたりが中心となって、学園にはなかった野球クラブを立ち上げるに至ったのだ。 スポーツに熱中して、肉体を酷使し汗を流すのは、彼らなりの喪失感を埋める行動なのだ。 そして達矢とゲーリーは、互いのことを“親友”と思うまでになっていた。 すっかり陽の落ちた第二グラウンド――。 ナイター設備のあるグラウンドは、照明で照らし出されている。野球クラブは発足したばかりの同好会であり、正式な部活動としてまだ承認されていないため、グラウンドを使用できる時間帯が限られていた。午後七時までサッカー部が使用している第二グランドを、遅い時間に借りているのだ。だが、照明は午後八時には消されることになっていた。 顧問として担ぎ出されたのは菅原だった。もとよりスポーツは苦手の菅原に、野球の指導ができるはずもなく、ただ彼らの草野球につきあっているだけであった。 菅原は時計を見る。八時十分前だった。 「よ――しっ! そろそろ時間だぁ! みんな上がりなさい!」 「達矢! ラスト一打席、勝負だ!」 バッターボックスに立っていたゲーリーは大声を出した。 「おおっ! 受けて立つぜ!」 マウンドの達矢は、足下の土を蹴って振りかぶった。 第一球――ファウルボール。 第二球――空振り。 第三球――ボール。 「逃げずにど真ん中に来い!」 「逃げてるわけじゃない。手が滑ったんだよ!」 第三球――カキーン! ボールはライトに飛んだ。不慣れな守備は目測を誤って、ボールは後方に落ちた。 ゲーリーはファーストを蹴り、セカンドへ。さらにサードを狙った。もたついた返球はようやくセカンドに戻ってきた。それを見たゲーリーはサードも蹴ってホームへ。 「くそっ! 守備が下手なことをみこしてランニングホームランか!?」達矢は叫んだ。 セカンドはあわててキャッチャーに投げ、暴投してしまった。ゲーリーは楽々ホームインした。 「はぁはぁはぁ、楽勝!」 「さぁさぁ! もうすぐ照明が落ちるぞ。今日はこれまで」菅原は生徒たちを急かした。 生徒たちは大急ぎで道具を集め、体育倉庫へと運んでいく。グラウンドの照明は段階的に暗くなっていく。片づけが済むと、菅原は管理室に内線電話を掛け、終了したことを告げる。そして照明は真っ暗になった。 「お疲れ」 「バイバイ」 クラブのメンバーは挨拶を交わして、それぞれの家路につく。 達矢とゲーリーはジャージ姿のまま、男子寮へと歩いていく。 「これから地下室に行くのか?」ゲーリーはきいた。 「まぁな。光輝とジャネットにまかせっきりというわけにもいかないだろう?」 「それは考えようだな。あのふたり、オレたちがいると邪魔みたいじゃないか」 「妬いてんのか? ふん?」達矢は鼻で笑った。 「おまえは、うらやましくないのかよ?」 「別に。ジャネットはおれのタイプじゃない」 「ふん。誰がタイプなんだよ?」今度はゲーリーが鼻で笑った。 「おまえこそ」 ふたりは立ち止まって、互いの腹の底を探りあう。 「その沈黙は、誰かいるということだな?」とゲーリー。 「おまえもだろ?」達矢はやりかえす。 「先にいえよ」ゲーリーは達矢の胸を拳で軽く叩いた。 「そっちが先だ。言い出したのはそっちじゃないか」 「さっきの勝負で勝ったのはオレだ」 「なにいうか。打率二割じゃないか。八割はおれの勝ちだ」 ふたりは顔を突き合わせ、相手の出方を見る。そして噴きだして笑った。 「なんか、バカバカしいことしてるぜ、おれたち」と達矢。 「だな。じゃあ、同時に名前をいうのはどうだ?」ゲーリーは提案した。 「ファーストネームか?」 「そうだ。カウントしよう。三つ数える。三、二、一、ドンだ」 「いいぜ」 ゲーリーはゴクリと唾を呑みこんだ。 「いいな? インチキなしだぞ」 達矢はうなずく。 「三、二、一」 『のぞみ』 ふたりは同時にいった。そして互いに驚きの表情を浮かべた。さらに同時にため息をついた。 「おまえなぁ、なんでのぞみなんだよ?」達矢は首を振りながらいった。 「まったく、おまえがライバルとは皮肉だな」ゲーリーは腕組みする。 「ライバルはもっといるだろうよ。ミス・マリアに選ばれてからというもの」 「そうだよな。同じクラスというのは有利だが、決定打にはならないよな」 ふたりは黙りこんで、再び歩き始める。 寮の入口の前まで来て、達矢は口を開いた。 「どうする?」 「どうするって、なにを?」 「彼女に告白するのかってこと」 「おまえは? そっちの方が長いつきあいなんだろうが?」 「長いっていっても、いままでこんなふうに意識したことはなかったんだよ。こっちの時代に来てからなんだ」 「同感だ。周りで誰それが恋愛中とかいう環境に、影響されているのかもな」 「いっそのこと、一緒に告白するか?」 「彼女に選ばせるのか? オレかおまえを」 「どちらでもないかもしれないぜ」 「ハァ〜」ふたりは肩を落としてため息をついた。 と、そこへのぞみの声が響いた。 「達矢! ゲーリー!」 彼女は女子寮から出てきた。 「のぞみ!」達矢とゲーリーはあわてた。 「野球の練習終わったのね。わたし、これから地下室に行くの。あとから来る?」 「ええっと……、着替えてから、晩飯食って……、時間があったら行くよ」達矢は顔を赤くしていった。 「どうかしたの? 顔が赤いわよ。また喧嘩でもしてたの? ほどほどにね」 「あははは、そういうわけじゃ……。な、ゲーリー?」 「ああ、ちょっとその……、なんでもない」 「そう、ならいいけど。じゃあね」 のぞみを背を向けて郷田邸へと向かった。 達矢とゲーリーは、彼女の姿が見えなくなるまでその場に立っていた。 夜の街には電飾の飾りが数珠繋ぎに配置され、クリスマスソングがエンドレスで流れている。不景気を気分だけでも払拭しようということなのか、例年にも増してにぎやかになっていた。 御子芝は天原学園に続く商店街を、人混みの流れに乗って歩いている。彼女は学園の制服を着て、やや大きめのリュックを背負っていた。制服を着ているのは、流行の移り変わりに左右されず、人から怪しまれることもないからだった。もうひとつの理由としては、毎日着る服に悩まなくて済むということだった。しかし、ミニスカートの下にストッキングを履いているとはいえ、足が冷えるのは欠点だった。 彼女は約二ヶ月ぶりに学園に戻るところだった。理奈とアンドルーの一件については、メールで知らされていた。ふたりが彼女自身と同じように時空転移してしまったことは、それほど驚きではなかった。経験者として彼女は、心配することはないと伝えていた。 彼女が学園に戻ることにしたのは、虫の知らせのようなものだった。 ――なにかが起こる―― 直感がそう告げていたのだ。 小高い丘の上にある学園の明かりが近づくにつれ、彼女のいらいらした気分は我慢の限界に達した。その原因は察していた。 人通りが途切れたところで、御子芝は立ち止まって振り返った。 「いつまでコソコソとあとをつけている? 高千穂! 貴様、ストーカーか!?」 フッと、つむじ風が舞って、御子芝のミニスカートがめくれた。街灯があるとはいえ、影になる部分は暗い。それでも赤いショーツがちらりと覗いた。 「なっ!!」 御子芝はあわててスカートを押さえた。 彼女の背後に高千穂が立っていた。 「くっくっ。樹よ、少々反応が鈍っているようだな? この程度の気をかわせぬとは」 「黙れ! 女には、どうしようもない体調のリズムがあるのだ! 平時であれば貴様ごときに……。男にはわからぬ!」 御子芝は顔が熱くなった。 (私はなにをいっているのだ!) 「そういう、うぶなところは好きだぞ」 「戯れ言を!」 彼女は手刀を振って、高千穂を狙った。しかし、彼はすんでのところでかわした。 「危ない危ない。脇差しがあったなら、やられていたな」 「なにしにきた!」 「俺はいつも君を見守っている。忘れたのか? 俺は君のペアなんだぞ」 「昔のことだ! 過去の時代に飛ぶ前の。申し出は受けたが、承諾はしていない!」 「拒絶もしなかったぞ」 「ならば……」 「拒絶できるのか? おまえと時空を供にできるのは、俺だけだぜ」 「ちっ……」 御子芝は言葉に詰まった。彼女は彼のことが嫌いなのではなかった。高千穂が少々鼻持ちならない性格であっても、彼は彼女を助けてもくれたのだ。彼女が喧嘩腰で彼に接するように、彼も彼女に対してからかい半分に接しているのだ。いつの頃からか、互いにそれが当たり前の意思表示となっていた。 御子芝は高千穂とのやりとりに苛立ちはするものの、けっして本心から嫌悪しているのではなかった。 「うせろ!」御子芝は怒鳴った。 「先に学園に行ってるさ」 高千穂はささっと影の中に溶けこみ、気配を消した。 「ふっ。涼……、どうしておまえは私を怒らせるのだ」 御子芝は苦笑いを浮かべていた。 瓦礫の街はやがて砂漠化した荒れ地へと変わった。かつては住宅地だった郊外も、褐色の砂に覆われ、目印になるものは乏しくなっている。 西に向かって歩き始めて五日目。理奈とアンドルーの足取りは重かった。ほんの数日でたどり着けると思っていたが、それは甘かった。昼間の日射を避けるために、夜間に移動していたが、闇夜では方向を定めるのが難しかった。星の位置を頼りにしていたものの、月と星の明かりだけでは足下がおぼつかず、思わぬ事故を招いた。 理奈は転倒して足を怪我していた。骨折こそしなかったが、満足に歩くことができないため、ある程度快復するまでキャンプを余儀なくされた。 ふたりは夜間の移動を控え、朝と夕方を中心に歩くようになった。足を引きずっている理奈のために、歩むスピードは一段の遅くなっていた。 六日目の陽が暮れ、ふたりは壁だけが残った廃屋にキャンプすることにした。 「どのくらい来たかしら?」 理奈はたき火に枯れ草をくべながらいった。 「半分、いや三分の二くらいかな。といっても、現在地がどこだがわからないから、希望的観測だな。迷っている可能性も否定できない」 「もっとなぐさめるようなこといってよ」 「そうだね」アンドルーは苦笑いして肩をすくめた。 彼は水の入ったペットボトルを理奈に渡す。水は残り少なかった。二一世紀ではペットボトルのリサイクルが大きな問題になっていた。分解しにくい素材だからだ。だが、廃墟の街に残されたゴミであるペットボトルは、都合の良い入れ物となった。 しかし、内陸に入るにしたがって、昼間のスコールは降らなくなっていた。生命線である水の確保ができないと、ふたりとも脱水症状で死ぬことになる。 「足はまだ痛むか?」 「ええ、ちょっとね。でも腫れは少し引いたわ」 「化膿しなくてよかった。感染症を起こしたらお手上げだからな」 理奈は夜空を見あげる。薄雲がかかっているために、見える星は少ない。 「今日で何日目?」 「歩き始めて六日目だ」 「こっちに来てからよ」 「たしか、四一日目だ」 「そうか……、もうすぐクリスマスね」 「こっちの時間が十二月とは限らないぜ」 「ムードのないこといわないの。クリスマスイブまでには戻りたいな」 「なにか約束でもあるのか?」アンドルーは微笑む。 「ひ・み・つ……」 「オレにも秘密なのか?」 理奈は返事をしなかった。彼女は目を閉じ、寝息を立てていた。 アンドルーは毛布代わりのボロ布を彼女に掛ける。 「休んでいてくれ。近くに水か食料がないか探してくる」 アンドルーはアルミパイプの先端に巻いた布きれに、油を染みこませてたき火にかざす。松明を手にした彼は、彼女の元を離れた。 のぞみは女子寮の前に立って、落ち着きなく待っていた。冷たくそよぐ風に乗ってジングルベルの曲がきこえる。やがて街灯の明かりの下に、人影が浮かびあがった。 御子芝である。 のぞみは満面の笑みで駆けよる。 「御子芝さん!」 「やぁ、のぞみ。久しぶりだ」 「お帰りなさい! 待ってたの!」 のぞみは御子芝に抱きついた。のぞみは泣いていた。 「おいおい、どうした? のぞみ。照れくさいではないか」 「ちょっと前に高千穂さんが現れて、あなたがすぐそばまで来ているって」 「涼が? ふん、あいつめ……。みんなを驚かせようと思っていたのに、先にばらされてしまったか」 「ちっともメールくれないんだもの。わたしが送っても返事は、“情報受領”とか“奔放不羈”とか“無事息災”とか四文字熟語だけだし……、寂しかった」 「すまぬ。おまえほど文才がないのでな。簡単な返事だけにとどめたのだ。ひらがなも交えるべきだったか?」御子芝は笑った。 「もう! 意地悪!」のぞみも笑った。 御子芝はのぞみの抱擁をやさしく解いた。 「みなはどうしている?」 「それなんだけど……。こっちへ」 のぞみは御子芝の手を引いて歩きだした。 ほどなく、のぞみは学園に戻った御子芝をともなって、地下室の電磁波暗室へと入った。 地下室には、光輝、ジャネット、キャサリン、達矢、ゲーリー、菅原、立原がいた。 御子芝は再会の挨拶と抱擁を交わした。御子芝から抱擁された菅原は、うれしさ半分恥ずかしさ半分だった。立原は菅原の反応に苦笑していた。 金属的な光沢に包まれた部屋の中にはぎっしりと棚が並び、一二〇台のパワーマックG4が収められていた。それぞれのコンピュータが発するファンの音が合わさって、旅客機の内部のようにゴォォ――ンと低くうなっている。発生する熱もかなりのものである。室内を冷やすための空調が、新たに設置されていた。だが、室温を一定に保ってはいるものの、熱気を感じずにはいられない。 「おおっ、これはなかなか壮観だな。よくもこれだけのものを作ったものだ」御子芝は感心した。 「見かけは大げさだけど、中身は稚拙なものよ」ジャネットが答えた。 「まぁ、そうだろうが、この時代では比類のないものだろう?」と御子芝。 「いってくれるね、君たち。僕はパワーマックがこんなに並んでいるのにヨダレものだよ」菅原は嘆息した。 「電磁波暗室はエキゾチックフィールドに較べると、ザルみたいなもんだけど、これである程度は外部からの干渉を軽減できる。うまく時空確率の入口を開けるといいんだけど」光輝はいった。 「しかし、確率波をどうやって発生させるんだ? 莫大なエネルギーが必要だろう? 日本中の電力を集めることは不可能なのでは?」御子芝は疑問を口にする。 「物質を確率波に乗せるわけじゃないんだ。情報だけだよ。つまり、質量はゼロ。エネルギーも実質的にはゼロになる。もちろん仮想的にエネルギーは投入されるけど、消費されないから差し引きエネルギーは保存される。シミュレーションで時空確率転送機を作って、仮想空間で稼動させるんだ。仮想であっても動作すれば、時空転移現象は起こるよ」 立原が口をはさむ。 「そこがわからないのよ。シミュレーションで可能だとして、それがどうして現実の未来に情報を送ることになるの?」 「先生、根本的な発想が間違ってるのよ」 ジャネットが答える。 「未来は現実じゃないのよ。確率なの。未来は確かなものとして存在しているんじゃなくて、確率として揺らいでいるわ。あたしたちはその確率の波を捉えようとしているの。 もっと厳密なことをいえば、いまこの瞬間の現実すら“現実”とはいえない。あたしたち自身も確率の海にうかんだ木の葉のようなものよ。現実を現実として認識できるのは、あたしたちの脳がその断片を“現実”として認識しているに過ぎないということよ」 「そう。つまり、脳も現実という瞬間をシュミレートしているんだ」光輝があとを継いだ。 「頭が混乱する考えかたね」立原は首をひねった。 「たとえば、こういう風に考えてみて」 ジャネットはさらに続ける。 「あたしが立原先生にメールを送るとする。それは数秒後には先生の元に届くわ。それはどうしてかというと、メールが未来に向かって送られたからよ。同一時間の先生にメールを発信しても、受け取ることができない。なぜなら、その時間の先生は未来の先生とは別の時空にいるからよ。 通常の世界であたしたちは、必然的にというか無意識のうちに連続した未来に向かって信号を送っているわけ。過去でも同一時間でもなく、未来にね。未来といっても因果律的未来だけど」 菅原がポンッと手を叩いた。 「なるほど、それはこの前の天原祭で、僕が説明した光の屈折と同じ理屈だな。光はちゃんと屈折するために未来の確率を捉えているんだ」 達矢が珍しく議論に加わる。 「この時代のコンピュータは、設計者が意図していないだけで、未来に向かって動作するようになっているんだ。ある条件では時間要素がマイナスになる要因があるにもかかわらずね。 量子コンピュータが発達すると、時間要素は無視できなくなるんだ」 「それはつまり、問題を入力する前に答が出るということ?」立原はきいた。 「そこまで単純じゃないけど、考えかたとしては近いよ」と光輝。 「世界観がひっくり返りそう……」立原は嘆息した。 ゲーリーも話題に参加する。 「そうでもないさ。ほら、天才とか芸術家はインスピレーションで、いきなり答を知るっていうだろう? あれは未来から情報を引き出している結果なんだ。脳にはもともと量子的なシステムが内包されている」 「來視、というやつだね」菅原はうなずいた。 「そういうこと。あたしたちは過去から情報を引き出すことになんの疑問も感じてないけど、未来から情報を引き出すことも本質的には同等なのよ。ただ、その方法というかチャンネルを持っていないだけなの」ジャネットが締めくくった。 「ふむ。たいしたものだ。それでシステムはもう完成したのか?」御子芝はきいた。 「まだ完成はしていない。あと一週間かそこらかな。クリスマス前には完成させたいよ」光輝は答えた。 御子芝は自分のいなかったわずか二ヶ月の間に、ずいぶんと成長した彼らを見まわした。特に女子の変化には、自分のことも含めて再確認していた。 「ところで、女子だけに話があるのだが……。すまぬが、男性諸氏は席を外してくれぬか?」 「はいはい、俺はそろそろ寮に帰って寝るぜ。行こう、ゲーリー、光輝」達矢は不満そうにいった。 「では、僕も今日はこれで。君たち、夜更かしもほどほどにな」菅原はいった。 男たちがエレベーターに乗ると、のぞみはきいた。 「なに?」 「君たちは、自分の体の変化に気がついているのか?」 「ああ……、そのこと。ええ、気がついてるわ。御子芝さんもなのね。みんなに同じ変化が起こってるわ」キャサリンはうなずいた。 立原はなんのことかと女子生徒たちの顔を順に見ていく。 「どういうこと?」 立原はキャサリンにきく。 「この件に関しては、立原先生に相談しようと思っていたの」 「私に? あなたたちにわからないことが、私にわかるのかしら?」立原は首を傾げた。 「わたしたちには……というか、わたしたちの時代ではいままで経験のないことだからです」のぞみはいった。 「というと?」 キャサリンはためらいがちにいう。 「わたしたちの体が……、変化しているようなの。つまり、妊娠が可能な体になっているんじゃないかと……」 立原は目を丸くした。 「それは……当然でしょ? あなたたちはそういう年齢なのだから」 のぞみは首を振った。 「違うの、先生。わたしたちの時代では、女性は妊娠しないんです。出産は人工子宮を使うから。生理はあるけど、排卵された卵子は不活性なままなの」 「それのどこが問題なの? 正常に戻ったということじゃない?」 「ええ、そう思いたいけど、まだ確信がないわ。そしてもし妊娠が可能なら、わたしたちは子供が欲しいと思っているのよ。心と体が強くそれを欲求しているの。わたしたちの体で、子供が産める残り時間は少ないから」キャサリンは真剣な表情でいった。 立原は少女たちの告白に、衝撃を受けていた。彼らの寿命が短いことはきかされていたが、出産に関することは初耳だった。寿命が短いというだけでも十分にショッキングだったが、子供を生みたいという彼女たちの気持ちは、さらにショッキングだった。 立原はどう答えたものか悩んでいた。 |
→第二六節「サイレント・ナイト」Part-1 | 返信 △ ▲ |
【Writer:諌山 裕】 一辺が三〇メートルほどの部屋は、まるでSF映画の未来住居を思わせた。壁と天井には三〇センチ四方のピラミッド型に突きでた壁材がはめこまれ、金属的な輝きと鋭利な先端が未来的な感覚と同時に落ちつかない緊張感をもたらしている。床面も金属で覆われ、鈍い輝きが鏡として周囲の像を反射し、目眩を感じさせる。 立原は目を閉じて目頭を押さえた。 「トラックが来たぞ。運びこむから手を貸してくれ」 部屋の入口から、達矢が顔を出していった。 「了解」 「おおっ」 金属製のラックとデスクを運びこんでいた光輝とゲーリーが返事をした。 「あたしたちも手伝おうか?」 ジャネットが自分とのぞみとキャサリンを指さしていった。 「いいよ。力仕事は男たちでやるから。君たちはセッティングをやってくれ」 少年たちはエレベーターに乗りこむと、上に昇っていく。 立原は手持ちぶさたで、目眩のする部屋の中を行きつ戻りつしていた。部屋の中にはこれから運びこまれるコンピュータを収納するラックが、部屋一杯に並んでいる。 「先生、無理にここにいなくてもいいですよ。わたしたちでできるから」 のぞみは立原に声をかけた。 「そのようね。でも、関わってしまった以上、あなたたちのすることを見ておきたいの。すべてを理解できないまでも、理解する努力はしたいし……。邪魔にならないようにするから、いてもいいかしら?」 「はい、もちろんです」 立原はパソコンチェアを引きよせて腰かけた。そして、あらためて不思議な部屋を見まわした。 「これが電磁波暗室ね……」彼女はつぶやいた。 彼らがいるのは、郷田邸の地下一階の部屋だった。もともとこの地下室は、郷田氏の趣味であるクラシックカーの保管室だった。車を運びこむために空間も広く、エレベーターも大きかった。地下であることは外部からの干渉を受けにくく、電磁波暗室を設置するのに都合がよかった。 少年たちは郷田に途方もないことを要求したのだ。 外部から完全に遮断できる環境で、スーパーコンピュータが欲しいと――。 その場所として、いくつかの案が上がった。郷田が所有している学校裏手の山林を造成して、あらたに施設を造ることや、第二体育館横の倉庫を改装する案などだ。しかし、あらたに造るには時間がかかりすぎるし、校内の施設を改装するには人目につきすぎた。そこで郷田邸の地下室を使うこととなった。ここであれば、一般の生徒が立ち入ることもないし、地下室の特質を活かした改装ができた。 電磁波暗室(シールドルーム)は、コンクリートで囲まれた地下室の内側を、アモルファス合金のパネルで覆って電磁波の侵入を遮断する。さらに壁と天井には内部から発生する電磁波を吸収するために、ピラミッド型ウレタン電波吸収体を配置していた。百パーセント完全なものではないが、即席のシールドルームとしては並の施設よりは精度のいいものである。 この部屋にスーパーコンピュータを設置しようというのだ。しかし、単体のスーパーコンピュータは高価でもあり、設置も容易ではない。そこで彼らは、1GHzデュアルプロセッサーパワーマックG4を並列システムとして連結して、スーパーコンピュータ並かそれ以上の処理能力を発揮できるようにしようとしている。システム構築のために投入されるパワーマックG4は、最終的に全部で一二〇台になる予定だ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で五六台を並列システムとした例があるが、それを上回る規模である。国内では前例のないコンピュータシステムとなる。 今日届いたのは、その第一陣で三〇台が搬入されることになっていた。 彼らがこのスーパーコンピュータでやろうとしているのは、時空確率転送機(ディメンジョン・プロパビリティ・テレプレゼンス)のミニチュア版だった。ミニチュア版といっても、物質の転送はできない。送受信できるのは情報だけになると、彼らは計算していた。そもそも量子コンピュータではない、ノイマン型コンピュータでは能力が低すぎるのだ。 コンピュータには人並み以上に詳しい立原でも、彼らの考えることは理解を超えていた。 「理解を超えているといえば、彼らの素性もいまだに信じられないわね」立原はひとりごちた。 「え? なんですか? 先生」のぞみは顔を立原に向けた。 「ああ、ひとりごとよ。気にしないで」 立原は“告白”された日のことを思い出す。 詳しい事情を郷田からきくことになっていたが、予定は延び延びになっていた。立原にはそれが言い逃れか誤魔化しにも思えていた矢先、唐突に呼び出しが来た。 中間考査の終わったその日、立原は郷田邸へと足を運んだ。彼女が郷田の書斎に案内されると、すでに彼ら八人と菅原が席についていた。菅原は眉間に皺を寄せて、難しい顔をしていた。菅原は立原の顔を見ると、引きつった笑みを浮かべた。 「急に呼びだして申し訳ない、立原先生。すべてをお話しする時期が来たようだ」 郷田は腕組みしたままいった。 「すべてを? そう願いたいですね」 立原は懐疑的にいった。彼女は菅原の隣に座る。 「さて、わしから話すか?」郷田は少年少女たちを一瞥する。 「そうね。まず、概略は郷田さんにお願いするわ。核心部分はあたしたちから話した方がいいと思うから」理奈が答えた。 「よかろう。ことの始まりは、わしが十四歳のときに遡る――」 郷田は懐かしむように話し始めた。 中間考査が終わって最初の日曜日に、理奈とのぞみは都心へと出かけた。秋葉原での部品調達が目的である。半日かけて使えそうな部品を探して、宅急便で学園宛てに送った。その数はダンボール箱五個分にもなった。 軽い食事を済ませると、ふたりは新宿に向かう。都庁の展望室に行くためだ。そこになにがあるわけでもなかったが、未来で見た光景を、もう一度“現在”の時間で見たいと思ったからだった。 エレベーターで展望室まで昇ると、観光客で混雑するフロアへと入っていく。ふたりは未来での光景と重ね合わせて見ていた。 のぞみは窓に近づいて、眼下を見おろす。そこは彼女が廃墟となった街を見おろした場所だ。 「ふぅ〜」のぞみはため息をついた。 「どうしたの?」理奈はきいた。 「なにか感じるかと思ったけど、見えている以上ものは見えないわね」 「そうね。五百年後にあたしたちがここに立っているなんて、嘘みたい」 周囲にはカメラを手にした人も多く、ときおりストロボが光っていた。 「よおっ」 声とともに理奈の肩に手が置かれた。理奈が振りかえるとアンドルーとキャサリンがいた。 「奇遇だな。こんなところで会うとは」アンドルーはいった。 「あなたたち……つけてたの?」理奈の顔はほころんでいた。 「まさか、偶然だよ。オレたちは近くの展示場で開催されている、コンピュータフェアを見てきた帰りなんだ。都内を一望するにはここがいいとキャサリンがいうから、来てみたんだ」 「収穫は?」と理奈。 アンドルーは首を振った。 「どれもこれも骨董品だな。スパコン作りには、いまのところパワーマックG4がベストだろう」 「そう……、みんなでお茶でも飲んでいく?」 「賛成」のぞみはいった。 「いいね」アンドルーはうなづいた。 「あんたのおごりよ」理奈はアンドルーの胸元をつついた。 「オーケー」 歓談する彼らにカメラを向けている男がいた。黒井である。彼はさかんにシャッターを切った。ズームで理奈を、のぞみを、キャサリンをファインダーにとらえて、写真に撮った。 (彼らだ! 間違いない。彼らだ……。予感はこれだったのか!) 理奈はカメラを向けている黒井に気がついた。そして怪訝な顔を向けた。それでも黒井はシャッターを切り続けていた。 「ねぇ! ちょっとそこのおじさん! あたしを撮ってるの!?」 理奈は黒井に近づいていく。 ――突然、黒井の眼前を、ビジョンが襲った。 彼は、廃墟となった街にいる理奈を見ていた。彼女はボロ切れを身にまとっていた。彼女のそばには、同じくボロ切れを着たアンドルーがいる。 黒井は激しい頭痛と目眩に悲鳴をあげる。 「うわぁぁ――!」 彼はその場に倒れこんだ。 理奈は倒れこむ黒井に手を差しのべた。 「なにごとだ?」アンドルーも駆けよる。 「この人が、あたしたちの写真を――」 今度は理奈が膝をついて、両腕で自分を抱きしめた。 「うぅ!――、この感覚は……」 理奈は全身をブルブルと震わせていた。 「どうした!? 理奈!」 アンドルーは屈みこんで彼女の両肩をつかんだ。 「転送だわ! 転送されるときの感覚よ!」理奈は叫んだ。 周囲の人々は遠巻きになりゆきをうかがっていた。 「御子芝と同じ現象か!? ここではまずいぞ!」 アンドルーは縮こまっている理奈を抱きあげた。 「あの男の人は?」のぞみはいった。 「ほっとけ!」 アンドルーは理奈を抱えて、エレベーターに乗りこむ。 「ほかの奴は出ていけ!!」彼は怒鳴った。 一般客は憤慨した表情を浮かべながらも、関わりあいになるのを避けるように、同乗することをあきらめた。エレベーターにいるのは、彼ら四人だけとなった。のぞみはエレベーターを閉じて、一番下の階のボタンを押した。 「理奈? 大丈夫か?」 アンドルーの問いかけに、理奈はただ体を震わせるだけだった。 やがて理奈の顔から光が失われていく。半透明になって、背景が見えているのだ。彼女の存在は、この時間から消えようとしていた。 「理奈!!」アンドルーは叫んだ。 「アンドルー!! あなたも!!」 キャサリンが叫んだ。キャサリンはアンドルーに手を触れようとした。しかし、彼女の手は彼の体をすり抜けてしまった。 「触るな!! 君たちも巻きこまれる!! 離れていろ!!」 エレベーターは下降を続けるが、のぞみとキャサリンにはどうすることもできなかった。理奈とアンドルーの姿は、徐々に霞み、空気の中に溶けこんでいく。 「ほかのみんなに伝えるんだ。オレたちの転送は安定していない。なにかのきっかけで確率が変動するんだ。その誘発原因を特定しろと……」 「アンドルー!!」 キャサリンは彼を押しとどめようと手を伸ばす。のぞみはキャサリンの手を引き戻した。 消えようとするアンドルーは、笑みをキャサリンに向けていた。彼は口を動かしていたが、声はもはやきこえなかった。 そして――。 ふたりは消えた。ふたりの着ていた服だけが、その場に残された。 のぞみとキャサリンは泣いていた。泣きながらも、ふたりの服をかき集めて腕に抱いた。 チンッ。 エレベーターが最下階に着いた。 エレベーターから出てきたのは、のぞみとキャサリンだけだった。ふたりは涙を流しながらも、急ぎ足でその場を去っていった。 地下室の電磁波暗室に、次々とコンピュータが運びこまれていく。立原は手伝いながらも、彼らの張りつめた精神状態をひしひしと感じていた。 口にこそ出さないものの、理奈とアンドルーが都庁ビルで消えてしまったことは、かなりのショックとなっていた。そのショックを紛らわすために、目先の仕事に没頭しているのだ。 すでにふたりが消えてから、三週間が経っていた。 消えてしまったふたりがどこに行ってしまったのかは、知りようもなかった。だが、残された彼らにはやらなくてはならないことがある。万が一の可能性として、ミニチュア版時空確率転送機で、ふたりの行方を追えるかもしれないとも考えていた。 立原は自分よりも、菅原の方がすんなりと彼らの真実を受けいれていることに、うらやましさすら感じていた。彼女には非現実的なことでも、菅原には当然のことのように受けとめられる柔軟さがあった。 「ふぅ〜、あと一回で終わりかな?」菅原は首に垂らしたタオルで顔を拭いた。 「今日のところはね。明日にはまた三〇台来るよ」光輝はいった。 「さっさと済ませてしまおうぜ」ゲーリーは一休みしている彼らに向かって、親指を突きだした拳をエレベーターに向かって振った。 「よっしゃ! もうひと頑張りだ」菅原は手を叩いていった。 理奈とアンドルーは休学していることになっていた。理奈は両親とともに旅行に、アンドルーは母国に帰省しているという理由だ。取ってつけたような理由だが、疑うものはいなかった。 女の子三人は、運びこまれたパワーマックG4に接続ケーブルをつないでいく。彼女たちの表情は硬い。ただもくもくと作業に没頭していた。 立原も理奈とアンドルーのことを心配していたが、彼らには自分自身の問題でもあるのだ。 自分の存在が消えるかもしれない――。 立原はゾクゾクと背筋が寒くなった。 (私にはとてもじゃないけど、そんな状況で冷静にはなれないわ。恐くて不安で仕事なんて……) ふと、立原は気がついた。彼らだって同じなのだと。彼らが並はずれた十四歳であっても、怖れや不安はあるはずなのだ。その気持ちを表に出していないのは、精一杯の無理をしているからだ。 立原は彼らを愛おしく感じた。そして少しでも彼らの心の負担を軽くしてあげたいと思った。 「ねぇ、今日の作業が終わったら、みんなで銭湯に行かない? 学校から近い藤乃湯は、天然温泉なのよ。ゆったりと浸かれるし、サウナやジャグジーもあるわ。ストレス発散と美容にはもってこいよ」立原は陽気にいった。 「温泉……ですか?」のぞみは興味なさそうにいった。 「そうそう、あなたたち疲れてるみたいだから、ちょっと気晴らしに」 「バスルームなら寮にもあるじゃない」ジャネットも乗り気ではない。 「寮では狭いし、ひとりしか入れないじゃない。銭湯は広いし、みんなで入れるわ」 「みんなでお風呂に入るの? 光輝もいっしょに?」ジャネットの顔が明るくなった。 立原は苦笑いして首を振った。 「混浴じゃないわよ。男女は別々。それでも女同士で楽しみながら入れるわ」 「ふう〜ん、別々なの……」 「わたしは行ってもいいですけど」とキャサリン。 「決まり! みんなで温泉に行くのよ」立原は嬉々としていった。 エレベーターのドアが開いて、台車に乗せたコンピュータが運びこまれてくる。立原は菅原に歩みよって、温泉行きのことを告げた。 「なるほど、それはいい考えですね。男の子たちのことはまかせてください。じつは僕もときどき藤乃湯には行くんですよ。混浴だとよかったのになー」 へらへらと笑う菅原に、立原は軽い蹴りを入れた。 精神的に沈んでいた彼らの間に、久しぶりに笑い声が上がっていた。 理奈は夢を見ていた。 彼女は立原のような大人の女性になり、彼女のかたわらには手をつないだ小さな女の子がいた。その子は彼女の生んだ子供だった。 「ママ、どうしてかなしそうなかおしてるの?」 「なんでもないのよ。ただ、懐かしかっただけ……」 「あのおねえちゃんは、ママのおともだち?」 「そう、ずっと昔に別れたお友だち」 「またあえる?」 「わからないわ……。会えるといいけど……」 「きっと、あえるよ。だって、おともだちなんだから」 「そうね。きっと、会えるわね」 理奈は泣いていた。 彼女の涙をぬぐってくれる手の温かみを感じた。そして彼女の肌に接している温もりも感じた。 彼女は目を開ける。彼女の頬は、ゆっくりと呼吸する人の胸元に接していた。 「理奈? 目を覚ましたか? 泣いていたな」 アンドルーの声だった。理奈はアンドルーの裸の胸に寄りかかっていた。 「なっ!」 理奈は体を彼から離して立ち上がった。ふたりの体を覆っていたビニールシートがずり落ちた。あたりは薄暗かったが、彼女は自分も裸であることに気がついた。 「なんなのよ! これは!」 「オレを責めるなよ。ふたりとも裸だ。陽が落ちてかなり冷えてきたからな。こうして温めあうことしかできないだろう?」 彼は悪びれることなくいった。 彼女は寒さに身震いして、ビニールシートを拾い、体に巻きつけた。 「寒……。どのくらい?」理奈はきいた。 「気温か? たぶん十度前後だ。もっと下がるだろう。火をおこす方法を考えないと、夜中に凍えてしまう。昼間は猛暑だがな」 「違う。どのくらい時間が経ったの? それとここはどこ?」 「なぁ、そばに来いよ。お互い、寒いだろう?」 理奈はおずおずと近づいて、彼の前に腰をおろした。 「変なことしないでよ」 「わかってるよ」 理奈はアンドルーの胸元に背中を預ける。彼はビニールシートがふたりを覆うように被せて、彼女を抱きしめた。 彼女の背中に彼の温もりが伝わり、寒気がいくぶん治まった。それは温もりだけではなく、彼に守られているという安心感でもあった。 「あたし、どのくらい気を失っていたの?」 「オレが目覚めたときには、陽は沈み始めていた。それから二〜三時間は経っている。気絶している君を背負って、雨風と直射日光をしのげるこの場所まで移動したんだ」 「で、ここはどこ?」 「どこというよりも、いつ、というのが問題だな。オレたちの本来の時代に近いいつかだ。都市の荒廃の具合から、二六世紀のいつかだろう」 「元に戻ったということ?」 「かもしれないが、確認しようがない」 「生身だけ飛ばされたのね」 「当然だな。時空の確率に支配されているのは生身だけだからな」 「御子芝さんは衣装も道具も一緒だったわ」 「条件の違いだろう。御子芝の場合には確率の歪みが大きくて、周囲の空間ごと転移しているのかもしれない。我々の場合は、歪みが小さくて生身だけになったんじゃないかな」 理奈は小さく笑った。 「なにがおかしい?」 「だって、もっと条件が悪ければ、頭だけ転移したかもしれないじゃない」 「それはいえてるな。だが、肉体が分離して転移する可能性は低いように思う。オレたちの肉体そのものは、同じ確率に支配されていると考える方が理にかなっている」 「ずいぶん冷静なのね」 「ひとりぼっちじゃないからさ。君がいる」 理奈は体をよじって彼の顔を見る。アンドルーも彼女を見つめる。 ふたりはしばしの間見つめあい、そして口づけをした。 闇が深まるにつれて、さらに気温は下がった。ふたりは互いの温もりをより強く感じながら生きる術を考えていた。 光輝は疲れた体を引きずるようにして、寮の部屋に戻ってきた。地下室でのDPTシステムの設計に、毎夜門限ギリギリまで時間を費やしていた。パワーマックを使ったスパコンシステムの構築は簡単なことだったが、そのシステムで走らせる時空確率を扱うプログラムを組むのは、容易いことではなかった。古典的なマシン言語と、反応の遅いハードウエアに苦戦していたのだ。 ドアを開けると部屋は真っ暗だった。 「達矢? もう寝たのかい?」 返事はない。 光輝は達矢が寝ているのだろうと思い、部屋の明かりを点けずにバスルームへと入り、シャワーを浴びることにした。 熱い湯を浴びて、凝った筋肉をほぐす。キーボードから入力しなくてはいけないコンピュータは、手間も時間もかかり、拷問に近かった。 シャワーを終えた彼はバスタオルで体を拭くと、裸のまま暗い部屋へと歩いていく。 「もう、くたくた」 大きなあくびが出た。意識は半分夢の中に入っていた。彼はパジャマに着替えずに、ベッドの中に潜りこんだ。 ベッドに入った光輝は、すぐに寝息を立て始めた。 しばらくして彼は布団の中に人肌を感じて、目をうっすらと開けた。 「あっ、ごめん達矢。ベッドを間違えたか? ん?」 彼は反対側のベッドに移ろうと半身を起こすが、腕を握られて引き留められた。 「悪かったよ。起こしちゃって。ぼくが向こうで寝る……よ……」 光輝はあくびしながらいった。 「間違ってないわよ」 ジャネットの声だった。 「へっ?」 光輝は眠気で朦朧した頭が、さらに混乱した。 「なんでジャネットが、ぼくのベッドに……? あれ、ぼくはなにしてんだろ?」 「達矢とゲーリーは菅原先生と外泊よ。秋葉原に先生の車で出かけたんだけど、ついでに東京ドームの日本シリーズを見に行ったんだって。主目的は野球だったみたいだけどね。チケットも用意してあったわけだから。そしたら、先生が勢いあまってビールをがぶ飲みしたわけ。ベロベロに酔っぱらった先生では車の運転はできないし、ふたりだけ帰るわけにもいかないから、ビジネスホテルで一泊することにしたそうよ。 だから、達矢は今晩帰ってこないの」 「ふうん……、それで君がいるのか?」光輝は状況がまだ呑みこめていなかった。 「そういうこと」 「ちょっ、ちょっと待ってくれよ! なにがそういうことなんだ!?」 光輝は曇っている意識を晴らそうと、頭を振った。 「ジャネット! 門限過ぎたら男子寮に女子は立入禁止なんだよ!」 「シーッ! その逆もね」彼女は平然といった。 「あたしは門限前からここにいるんだもの」 「こんなところ、寮長に見つかったら……」 「見つからないようにしなくちゃね」 窓からはうっすらと街灯の明かりが差しこんでいる。暗がり中で掛け布団とともに上体を起こしたジャネットは、いたずらっぽい笑みが浮かべていた。ベッドの縁に腰かけた光輝は、呆然と彼女を見つめる。そして自分が裸であることを思い出した。彼はあわてて掛け布団を引きよせた。 「あっ」彼女は小声でいった。 ジャネットから掛け布団がはぎ取られる。彼女も裸だった。 ジャネットは照れくさそうに舌を出して肩をすくめた。 「もう、いきなりなんだから。少しはあたしの気持ちを考えてよ。これでも勇気を振り絞ってるんだから」 光輝はジャネットに背を向けてうつむいた。頭の中は困惑と恥ずかしさが充満していた。 彼女はするすると体を移動させて、彼の背後に近づく。そして彼を抱きしめた。彼は背中にふっくらとした胸が触れるのを感じていた。 ジャネットは光輝の耳元でささやく。 「あたしたち、いつ消えるかわからないわ。アンドルーと理奈のように。消えないにしても、来年には老化が始まる。十四歳のあたしたちには、最後の青春なのよ。こっちの世界では子供扱いだけど、未来では十四歳になればだれもが異性のペアを選ぶ時期よ。むしろ遅すぎるくらい。 あなたは理奈かのぞみと約束してるの?」 「いいや。だれとも約束はしていないよ。この任務のことが最優先だったから……」 「だったら、気兼ねはいらないんじゃない? あたしのこと、好き?」 光輝はうなずいた。そして、ふたりは向かいあう。 「あたしは、あなたをペアに選ぶわ」 「ぼくも君を選ぶよ」 ふたりは互いの気持ちを、一晩中かけてより深く確かめあうのだった。 早朝、のぞみはキャサリンの部屋をノックした。ミサに出席するため、一緒に出かけるのが日課となっていた。 扉が開く。 「おはよう」キャサリンは明るく挨拶をした。 「おはよう」のぞみも挨拶する。 「ちょっと待ってくれる?」 キャサリンは部屋に戻ると、同室のジャネットに声をかける。 「今日は休むのね?」 「うん、ごめん。もっと寝かして……」ジャネットは気だるい声で答えていた。 「授業には出るの?」 「努力しま〜す」 「やれやれ……」 キャサリンはひとりで部屋を出る。 「ジャネット、具合でも悪いの?」のぞみはきいた。 「そうじゃないのよ。歩きながら話すわ。人にはきかれたくないし」 のぞみとキャサリンは連れだって女子寮を出る。並んで歩きながら、キャサリンは周りに人がいないことを確認する。そして小声で話し始めた。 「ジャネットったら、光輝くんをペアに選んだらしいわ」 「ええっ! そうなの? 最近、仲がいいとは思っていたけど。お似合いかもね」 「それには異議なしね。問題は彼女が彼のところに泊まったことよ」 のぞみは絶句した。 「それって……」 「ご想像通りだと思うわ。男たちには内緒よ。彼女のせっぱ詰まった気持ちはわかるから」 「そうか……、光輝と……」 「気になる?」 キャサリンはのぞみの顔を覗きこむ。 「まぁね。なんていうか、ちょっとうらやましいな」 「それにも同感。これはきっと環境のせいだね。食べものに空気、人間関係や自然環境、この時代には刺激的な要素が多いわ。わたしたちはもうすぐ老化が始まるというのに、ホルモンが過剰に分泌されていると思うの。体の内側から欲求が湧き出してくるのよ。最近、生理不順だし、生理痛もひどいわ。あなたは?」 「ええ、気にはなっていたの……」 「ホルモンバランスが崩れているんだわ。というよりは、本来のリズムに戻ろうとしているみたい。コロニーでは四二日周期だったものが、二八日周期に近づいているから」 「そこまで考えていなかったわ」 「もしかしたら、もっと劇的な変化かもね」 「どういう……?」 「わたしたちは、受胎可能になっているのかもしれない」 「まさか――」 「わたしもまさかとは思うけど……。人工子宮なしに、わたしたちにも子供が産めるとしたら、それはすごいことよ。人口制御のために取り除いたはずの機能が、過去に来ただけで復活したわけだから」 「それって、喜ぶことかしら?」 キャサリンは肩をすくめた。 「わからないわ。妊娠するってことがどういうことなのか、知らないんだから」 「立原先生に相談しようか?」のぞみはいった。 「先生だって出産経験はないでしょ?」 「そうだけど、大人の女性だし、先生は妊娠できる体だわ。ほかにこういう話を相談できる相手もいないし」 「きくだけきいてみようか?」 「ええ」 ほどなく、礼拝堂に向かう生徒たちと出会うと、ふたりは話題を変えた。 ミサでミス・マリアとしての務めを果たしながら、のぞみはひとつの想いに心を奪われていた。 ――わたしが子供を産む―― それはいままで想像もしなかったことだが、魅惑的な想いだった。 |