一辺が三〇メートルほどの部屋は、まるでSF映画の未来住居を思わせた。壁と天井には三〇センチ四方のピラミッド型に突きでた壁材がはめこまれ、金属的な輝きと鋭利な先端が未来的な感覚と同時に落ちつかない緊張感をもたらしている。床面も金属で覆われ、鈍い輝きが鏡として周囲の像を反射し、目眩を感じさせる。
立原は目を閉じて目頭を押さえた。
「トラックが来たぞ。運びこむから手を貸してくれ」
部屋の入口から、達矢が顔を出していった。
「了解」
「おおっ」
金属製のラックとデスクを運びこんでいた光輝とゲーリーが返事をした。
「あたしたちも手伝おうか?」
ジャネットが自分とのぞみとキャサリンを指さしていった。
「いいよ。力仕事は男たちでやるから。君たちはセッティングをやってくれ」
少年たちはエレベーターに乗りこむと、上に昇っていく。
立原は手持ちぶさたで、目眩のする部屋の中を行きつ戻りつしていた。部屋の中にはこれから運びこまれるコンピュータを収納するラックが、部屋一杯に並んでいる。
「先生、無理にここにいなくてもいいですよ。わたしたちでできるから」
のぞみは立原に声をかけた。
「そのようね。でも、関わってしまった以上、あなたたちのすることを見ておきたいの。すべてを理解できないまでも、理解する努力はしたいし……。邪魔にならないようにするから、いてもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
立原はパソコンチェアを引きよせて腰かけた。そして、あらためて不思議な部屋を見まわした。
「これが電磁波暗室ね……」彼女はつぶやいた。
彼らがいるのは、郷田邸の地下一階の部屋だった。もともとこの地下室は、郷田氏の趣味であるクラシックカーの保管室だった。車を運びこむために空間も広く、エレベーターも大きかった。地下であることは外部からの干渉を受けにくく、電磁波暗室を設置するのに都合がよかった。
少年たちは郷田に途方もないことを要求したのだ。
外部から完全に遮断できる環境で、スーパーコンピュータが欲しいと――。
その場所として、いくつかの案が上がった。郷田が所有している学校裏手の山林を造成して、あらたに施設を造ることや、第二体育館横の倉庫を改装する案などだ。しかし、あらたに造るには時間がかかりすぎるし、校内の施設を改装するには人目につきすぎた。そこで郷田邸の地下室を使うこととなった。ここであれば、一般の生徒が立ち入ることもないし、地下室の特質を活かした改装ができた。
電磁波暗室(シールドルーム)は、コンクリートで囲まれた地下室の内側を、アモルファス合金のパネルで覆って電磁波の侵入を遮断する。さらに壁と天井には内部から発生する電磁波を吸収するために、ピラミッド型ウレタン電波吸収体を配置していた。百パーセント完全なものではないが、即席のシールドルームとしては並の施設よりは精度のいいものである。
この部屋にスーパーコンピュータを設置しようというのだ。しかし、単体のスーパーコンピュータは高価でもあり、設置も容易ではない。そこで彼らは、1GHzデュアルプロセッサーパワーマックG4を並列システムとして連結して、スーパーコンピュータ並かそれ以上の処理能力を発揮できるようにしようとしている。システム構築のために投入されるパワーマックG4は、最終的に全部で一二〇台になる予定だ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で五六台を並列システムとした例があるが、それを上回る規模である。国内では前例のないコンピュータシステムとなる。
今日届いたのは、その第一陣で三〇台が搬入されることになっていた。
彼らがこのスーパーコンピュータでやろうとしているのは、時空確率転送機(ディメンジョン・プロパビリティ・テレプレゼンス)のミニチュア版だった。ミニチュア版といっても、物質の転送はできない。送受信できるのは情報だけになると、彼らは計算していた。そもそも量子コンピュータではない、ノイマン型コンピュータでは能力が低すぎるのだ。
コンピュータには人並み以上に詳しい立原でも、彼らの考えることは理解を超えていた。
「理解を超えているといえば、彼らの素性もいまだに信じられないわね」立原はひとりごちた。
「え? なんですか? 先生」のぞみは顔を立原に向けた。
「ああ、ひとりごとよ。気にしないで」
立原は“告白”された日のことを思い出す。
詳しい事情を郷田からきくことになっていたが、予定は延び延びになっていた。立原にはそれが言い逃れか誤魔化しにも思えていた矢先、唐突に呼び出しが来た。
中間考査の終わったその日、立原は郷田邸へと足を運んだ。彼女が郷田の書斎に案内されると、すでに彼ら八人と菅原が席についていた。菅原は眉間に皺を寄せて、難しい顔をしていた。菅原は立原の顔を見ると、引きつった笑みを浮かべた。
「急に呼びだして申し訳ない、立原先生。すべてをお話しする時期が来たようだ」
郷田は腕組みしたままいった。
「すべてを? そう願いたいですね」
立原は懐疑的にいった。彼女は菅原の隣に座る。
「さて、わしから話すか?」郷田は少年少女たちを一瞥する。
「そうね。まず、概略は郷田さんにお願いするわ。核心部分はあたしたちから話した方がいいと思うから」理奈が答えた。
「よかろう。ことの始まりは、わしが十四歳のときに遡る――」
郷田は懐かしむように話し始めた。
中間考査が終わって最初の日曜日に、理奈とのぞみは都心へと出かけた。秋葉原での部品調達が目的である。半日かけて使えそうな部品を探して、宅急便で学園宛てに送った。その数はダンボール箱五個分にもなった。
軽い食事を済ませると、ふたりは新宿に向かう。都庁の展望室に行くためだ。そこになにがあるわけでもなかったが、未来で見た光景を、もう一度“現在”の時間で見たいと思ったからだった。
エレベーターで展望室まで昇ると、観光客で混雑するフロアへと入っていく。ふたりは未来での光景と重ね合わせて見ていた。
のぞみは窓に近づいて、眼下を見おろす。そこは彼女が廃墟となった街を見おろした場所だ。
「ふぅ~」のぞみはため息をついた。
「どうしたの?」理奈はきいた。
「なにか感じるかと思ったけど、見えている以上ものは見えないわね」
「そうね。五百年後にあたしたちがここに立っているなんて、嘘みたい」
周囲にはカメラを手にした人も多く、ときおりストロボが光っていた。
「よおっ」
声とともに理奈の肩に手が置かれた。理奈が振りかえるとアンドルーとキャサリンがいた。
「奇遇だな。こんなところで会うとは」アンドルーはいった。
「あなたたち……つけてたの?」理奈の顔はほころんでいた。
「まさか、偶然だよ。オレたちは近くの展示場で開催されている、コンピュータフェアを見てきた帰りなんだ。都内を一望するにはここがいいとキャサリンがいうから、来てみたんだ」
「収穫は?」と理奈。
アンドルーは首を振った。
「どれもこれも骨董品だな。スパコン作りには、いまのところパワーマックG4がベストだろう」
「そう……、みんなでお茶でも飲んでいく?」
「賛成」のぞみはいった。
「いいね」アンドルーはうなづいた。
「あんたのおごりよ」理奈はアンドルーの胸元をつついた。
「オーケー」
歓談する彼らにカメラを向けている男がいた。黒井である。彼はさかんにシャッターを切った。ズームで理奈を、のぞみを、キャサリンをファインダーにとらえて、写真に撮った。
(彼らだ! 間違いない。彼らだ……。予感はこれだったのか!)
理奈はカメラを向けている黒井に気がついた。そして怪訝な顔を向けた。それでも黒井はシャッターを切り続けていた。
「ねぇ! ちょっとそこのおじさん! あたしを撮ってるの!?」
理奈は黒井に近づいていく。
――突然、黒井の眼前を、ビジョンが襲った。
彼は、廃墟となった街にいる理奈を見ていた。彼女はボロ切れを身にまとっていた。彼女のそばには、同じくボロ切れを着たアンドルーがいる。
黒井は激しい頭痛と目眩に悲鳴をあげる。
「うわぁぁ――!」
彼はその場に倒れこんだ。
理奈は倒れこむ黒井に手を差しのべた。
「なにごとだ?」アンドルーも駆けよる。
「この人が、あたしたちの写真を――」
今度は理奈が膝をついて、両腕で自分を抱きしめた。
「うぅ!――、この感覚は……」
理奈は全身をブルブルと震わせていた。
「どうした!? 理奈!」
アンドルーは屈みこんで彼女の両肩をつかんだ。
「転送だわ! 転送されるときの感覚よ!」理奈は叫んだ。
周囲の人々は遠巻きになりゆきをうかがっていた。
「御子芝と同じ現象か!? ここではまずいぞ!」
アンドルーは縮こまっている理奈を抱きあげた。
「あの男の人は?」のぞみはいった。
「ほっとけ!」
アンドルーは理奈を抱えて、エレベーターに乗りこむ。
「ほかの奴は出ていけ!!」彼は怒鳴った。
一般客は憤慨した表情を浮かべながらも、関わりあいになるのを避けるように、同乗することをあきらめた。エレベーターにいるのは、彼ら四人だけとなった。のぞみはエレベーターを閉じて、一番下の階のボタンを押した。
「理奈? 大丈夫か?」
アンドルーの問いかけに、理奈はただ体を震わせるだけだった。
やがて理奈の顔から光が失われていく。半透明になって、背景が見えているのだ。彼女の存在は、この時間から消えようとしていた。
「理奈!!」アンドルーは叫んだ。
「アンドルー!! あなたも!!」
キャサリンが叫んだ。キャサリンはアンドルーに手を触れようとした。しかし、彼女の手は彼の体をすり抜けてしまった。
「触るな!! 君たちも巻きこまれる!! 離れていろ!!」
エレベーターは下降を続けるが、のぞみとキャサリンにはどうすることもできなかった。理奈とアンドルーの姿は、徐々に霞み、空気の中に溶けこんでいく。
「ほかのみんなに伝えるんだ。オレたちの転送は安定していない。なにかのきっかけで確率が変動するんだ。その誘発原因を特定しろと……」
「アンドルー!!」
キャサリンは彼を押しとどめようと手を伸ばす。のぞみはキャサリンの手を引き戻した。
消えようとするアンドルーは、笑みをキャサリンに向けていた。彼は口を動かしていたが、声はもはやきこえなかった。
そして――。
ふたりは消えた。ふたりの着ていた服だけが、その場に残された。
のぞみとキャサリンは泣いていた。泣きながらも、ふたりの服をかき集めて腕に抱いた。
チンッ。
エレベーターが最下階に着いた。
エレベーターから出てきたのは、のぞみとキャサリンだけだった。ふたりは涙を流しながらも、急ぎ足でその場を去っていった。
地下室の電磁波暗室に、次々とコンピュータが運びこまれていく。立原は手伝いながらも、彼らの張りつめた精神状態をひしひしと感じていた。
口にこそ出さないものの、理奈とアンドルーが都庁ビルで消えてしまったことは、かなりのショックとなっていた。そのショックを紛らわすために、目先の仕事に没頭しているのだ。
すでにふたりが消えてから、三週間が経っていた。
消えてしまったふたりがどこに行ってしまったのかは、知りようもなかった。だが、残された彼らにはやらなくてはならないことがある。万が一の可能性として、ミニチュア版時空確率転送機で、ふたりの行方を追えるかもしれないとも考えていた。
立原は自分よりも、菅原の方がすんなりと彼らの真実を受けいれていることに、うらやましさすら感じていた。彼女には非現実的なことでも、菅原には当然のことのように受けとめられる柔軟さがあった。
「ふぅ~、あと一回で終わりかな?」菅原は首に垂らしたタオルで顔を拭いた。
「今日のところはね。明日にはまた三〇台来るよ」光輝はいった。
「さっさと済ませてしまおうぜ」ゲーリーは一休みしている彼らに向かって、親指を突きだした拳をエレベーターに向かって振った。
「よっしゃ! もうひと頑張りだ」菅原は手を叩いていった。
理奈とアンドルーは休学していることになっていた。理奈は両親とともに旅行に、アンドルーは母国に帰省しているという理由だ。取ってつけたような理由だが、疑うものはいなかった。
女の子三人は、運びこまれたパワーマックG4に接続ケーブルをつないでいく。彼女たちの表情は硬い。ただもくもくと作業に没頭していた。
立原も理奈とアンドルーのことを心配していたが、彼らには自分自身の問題でもあるのだ。
自分の存在が消えるかもしれない――。
立原はゾクゾクと背筋が寒くなった。
(私にはとてもじゃないけど、そんな状況で冷静にはなれないわ。恐くて不安で仕事なんて……)
ふと、立原は気がついた。彼らだって同じなのだと。彼らが並はずれた十四歳であっても、怖れや不安はあるはずなのだ。その気持ちを表に出していないのは、精一杯の無理をしているからだ。
立原は彼らを愛おしく感じた。そして少しでも彼らの心の負担を軽くしてあげたいと思った。
「ねぇ、今日の作業が終わったら、みんなで銭湯に行かない? 学校から近い藤乃湯は、天然温泉なのよ。ゆったりと浸かれるし、サウナやジャグジーもあるわ。ストレス発散と美容にはもってこいよ」立原は陽気にいった。
「温泉……ですか?」のぞみは興味なさそうにいった。
「そうそう、あなたたち疲れてるみたいだから、ちょっと気晴らしに」
「バスルームなら寮にもあるじゃない」ジャネットも乗り気ではない。
「寮では狭いし、ひとりしか入れないじゃない。銭湯は広いし、みんなで入れるわ」
「みんなでお風呂に入るの? 光輝もいっしょに?」ジャネットの顔が明るくなった。
立原は苦笑いして首を振った。
「混浴じゃないわよ。男女は別々。それでも女同士で楽しみながら入れるわ」
「ふう~ん、別々なの……」
「わたしは行ってもいいですけど」とキャサリン。
「決まり! みんなで温泉に行くのよ」立原は嬉々としていった。
エレベーターのドアが開いて、台車に乗せたコンピュータが運びこまれてくる。立原は菅原に歩みよって、温泉行きのことを告げた。
「なるほど、それはいい考えですね。男の子たちのことはまかせてください。じつは僕もときどき藤乃湯には行くんですよ。混浴だとよかったのになー」
へらへらと笑う菅原に、立原は軽い蹴りを入れた。
精神的に沈んでいた彼らの間に、久しぶりに笑い声が上がっていた。
理奈は夢を見ていた。
彼女は立原のような大人の女性になり、彼女のかたわらには手をつないだ小さな女の子がいた。その子は彼女の生んだ子供だった。
「ママ、どうしてかなしそうなかおしてるの?」
「なんでもないのよ。ただ、懐かしかっただけ……」
「あのおねえちゃんは、ママのおともだち?」
「そう、ずっと昔に別れたお友だち」
「またあえる?」
「わからないわ……。会えるといいけど……」
「きっと、あえるよ。だって、おともだちなんだから」
「そうね。きっと、会えるわね」
理奈は泣いていた。
彼女の涙をぬぐってくれる手の温かみを感じた。そして彼女の肌に接している温もりも感じた。
彼女は目を開ける。彼女の頬は、ゆっくりと呼吸する人の胸元に接していた。
「理奈? 目を覚ましたか? 泣いていたな」
アンドルーの声だった。理奈はアンドルーの裸の胸に寄りかかっていた。
「なっ!」
理奈は体を彼から離して立ち上がった。ふたりの体を覆っていたビニールシートがずり落ちた。あたりは薄暗かったが、彼女は自分も裸であることに気がついた。
「なんなのよ! これは!」
「オレを責めるなよ。ふたりとも裸だ。陽が落ちてかなり冷えてきたからな。こうして温めあうことしかできないだろう?」
彼は悪びれることなくいった。
彼女は寒さに身震いして、ビニールシートを拾い、体に巻きつけた。
「寒……。どのくらい?」理奈はきいた。
「気温か? たぶん十度前後だ。もっと下がるだろう。火をおこす方法を考えないと、夜中に凍えてしまう。昼間は猛暑だがな」
「違う。どのくらい時間が経ったの? それとここはどこ?」
「なぁ、そばに来いよ。お互い、寒いだろう?」
理奈はおずおずと近づいて、彼の前に腰をおろした。
「変なことしないでよ」
「わかってるよ」
理奈はアンドルーの胸元に背中を預ける。彼はビニールシートがふたりを覆うように被せて、彼女を抱きしめた。
彼女の背中に彼の温もりが伝わり、寒気がいくぶん治まった。それは温もりだけではなく、彼に守られているという安心感でもあった。
「あたし、どのくらい気を失っていたの?」
「オレが目覚めたときには、陽は沈み始めていた。それから二~三時間は経っている。気絶している君を背負って、雨風と直射日光をしのげるこの場所まで移動したんだ」
「で、ここはどこ?」
「どこというよりも、いつ、というのが問題だな。オレたちの本来の時代に近いいつかだ。都市の荒廃の具合から、二六世紀のいつかだろう」
「元に戻ったということ?」
「かもしれないが、確認しようがない」
「生身だけ飛ばされたのね」
「当然だな。時空の確率に支配されているのは生身だけだからな」
「御子芝さんは衣装も道具も一緒だったわ」
「条件の違いだろう。御子芝の場合には確率の歪みが大きくて、周囲の空間ごと転移しているのかもしれない。我々の場合は、歪みが小さくて生身だけになったんじゃないかな」
理奈は小さく笑った。
「なにがおかしい?」
「だって、もっと条件が悪ければ、頭だけ転移したかもしれないじゃない」
「それはいえてるな。だが、肉体が分離して転移する可能性は低いように思う。オレたちの肉体そのものは、同じ確率に支配されていると考える方が理にかなっている」
「ずいぶん冷静なのね」
「ひとりぼっちじゃないからさ。君がいる」
理奈は体をよじって彼の顔を見る。アンドルーも彼女を見つめる。
ふたりはしばしの間見つめあい、そして口づけをした。
闇が深まるにつれて、さらに気温は下がった。ふたりは互いの温もりをより強く感じながら生きる術を考えていた。
光輝は疲れた体を引きずるようにして、寮の部屋に戻ってきた。地下室でのDPTシステムの設計に、毎夜門限ギリギリまで時間を費やしていた。パワーマックを使ったスパコンシステムの構築は簡単なことだったが、そのシステムで走らせる時空確率を扱うプログラムを組むのは、容易いことではなかった。古典的なマシン言語と、反応の遅いハードウエアに苦戦していたのだ。
ドアを開けると部屋は真っ暗だった。
「達矢? もう寝たのかい?」
返事はない。
光輝は達矢が寝ているのだろうと思い、部屋の明かりを点けずにバスルームへと入り、シャワーを浴びることにした。
熱い湯を浴びて、凝った筋肉をほぐす。キーボードから入力しなくてはいけないコンピュータは、手間も時間もかかり、拷問に近かった。
シャワーを終えた彼はバスタオルで体を拭くと、裸のまま暗い部屋へと歩いていく。
「もう、くたくた」
大きなあくびが出た。意識は半分夢の中に入っていた。彼はパジャマに着替えずに、ベッドの中に潜りこんだ。
ベッドに入った光輝は、すぐに寝息を立て始めた。
しばらくして彼は布団の中に人肌を感じて、目をうっすらと開けた。
「あっ、ごめん達矢。ベッドを間違えたか? ん?」
彼は反対側のベッドに移ろうと半身を起こすが、腕を握られて引き留められた。
「悪かったよ。起こしちゃって。ぼくが向こうで寝る……よ……」
光輝はあくびしながらいった。
「間違ってないわよ」
ジャネットの声だった。
「へっ?」
光輝は眠気で朦朧した頭が、さらに混乱した。
「なんでジャネットが、ぼくのベッドに……? あれ、ぼくはなにしてんだろ?」
「達矢とゲーリーは菅原先生と外泊よ。秋葉原に先生の車で出かけたんだけど、ついでに東京ドームの日本シリーズを見に行ったんだって。主目的は野球だったみたいだけどね。チケットも用意してあったわけだから。そしたら、先生が勢いあまってビールをがぶ飲みしたわけ。ベロベロに酔っぱらった先生では車の運転はできないし、ふたりだけ帰るわけにもいかないから、ビジネスホテルで一泊することにしたそうよ。
だから、達矢は今晩帰ってこないの」
「ふうん……、それで君がいるのか?」光輝は状況がまだ呑みこめていなかった。
「そういうこと」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ! なにがそういうことなんだ!?」
光輝は曇っている意識を晴らそうと、頭を振った。
「ジャネット! 門限過ぎたら男子寮に女子は立入禁止なんだよ!」
「シーッ! その逆もね」彼女は平然といった。
「あたしは門限前からここにいるんだもの」
「こんなところ、寮長に見つかったら……」
「見つからないようにしなくちゃね」
窓からはうっすらと街灯の明かりが差しこんでいる。暗がり中で掛け布団とともに上体を起こしたジャネットは、いたずらっぽい笑みが浮かべていた。ベッドの縁に腰かけた光輝は、呆然と彼女を見つめる。そして自分が裸であることを思い出した。彼はあわてて掛け布団を引きよせた。
「あっ」彼女は小声でいった。
ジャネットから掛け布団がはぎ取られる。彼女も裸だった。
ジャネットは照れくさそうに舌を出して肩をすくめた。
「もう、いきなりなんだから。少しはあたしの気持ちを考えてよ。これでも勇気を振り絞ってるんだから」
光輝はジャネットに背を向けてうつむいた。頭の中は困惑と恥ずかしさが充満していた。
彼女はするすると体を移動させて、彼の背後に近づく。そして彼を抱きしめた。彼は背中にふっくらとした胸が触れるのを感じていた。
ジャネットは光輝の耳元でささやく。
「あたしたち、いつ消えるかわからないわ。アンドルーと理奈のように。消えないにしても、来年には老化が始まる。十四歳のあたしたちには、最後の青春なのよ。こっちの世界では子供扱いだけど、未来では十四歳になればだれもが異性のペアを選ぶ時期よ。むしろ遅すぎるくらい。
あなたは理奈かのぞみと約束してるの?」
「いいや。だれとも約束はしていないよ。この任務のことが最優先だったから……」
「だったら、気兼ねはいらないんじゃない? あたしのこと、好き?」
光輝はうなずいた。そして、ふたりは向かいあう。
「あたしは、あなたをペアに選ぶわ」
「ぼくも君を選ぶよ」
ふたりは互いの気持ちを、一晩中かけてより深く確かめあうのだった。
早朝、のぞみはキャサリンの部屋をノックした。ミサに出席するため、一緒に出かけるのが日課となっていた。
扉が開く。
「おはよう」キャサリンは明るく挨拶をした。
「おはよう」のぞみも挨拶する。
「ちょっと待ってくれる?」
キャサリンは部屋に戻ると、同室のジャネットに声をかける。
「今日は休むのね?」
「うん、ごめん。もっと寝かして……」ジャネットは気だるい声で答えていた。
「授業には出るの?」
「努力しま~す」
「やれやれ……」
キャサリンはひとりで部屋を出る。
「ジャネット、具合でも悪いの?」のぞみはきいた。
「そうじゃないのよ。歩きながら話すわ。人にはきかれたくないし」
のぞみとキャサリンは連れだって女子寮を出る。並んで歩きながら、キャサリンは周りに人がいないことを確認する。そして小声で話し始めた。
「ジャネットったら、光輝くんをペアに選んだらしいわ」
「ええっ! そうなの? 最近、仲がいいとは思っていたけど。お似合いかもね」
「それには異議なしね。問題は彼女が彼のところに泊まったことよ」
のぞみは絶句した。
「それって……」
「ご想像通りだと思うわ。男たちには内緒よ。彼女のせっぱ詰まった気持ちはわかるから」
「そうか……、光輝と……」
「気になる?」
キャサリンはのぞみの顔を覗きこむ。
「まぁね。なんていうか、ちょっとうらやましいな」
「それにも同感。これはきっと環境のせいだね。食べものに空気、人間関係や自然環境、この時代には刺激的な要素が多いわ。わたしたちはもうすぐ老化が始まるというのに、ホルモンが過剰に分泌されていると思うの。体の内側から欲求が湧き出してくるのよ。最近、生理不順だし、生理痛もひどいわ。あなたは?」
「ええ、気にはなっていたの……」
「ホルモンバランスが崩れているんだわ。というよりは、本来のリズムに戻ろうとしているみたい。コロニーでは四二日周期だったものが、二八日周期に近づいているから」
「そこまで考えていなかったわ」
「もしかしたら、もっと劇的な変化かもね」
「どういう……?」
「わたしたちは、受胎可能になっているのかもしれない」
「まさか――」
「わたしもまさかとは思うけど……。人工子宮なしに、わたしたちにも子供が産めるとしたら、それはすごいことよ。人口制御のために取り除いたはずの機能が、過去に来ただけで復活したわけだから」
「それって、喜ぶことかしら?」
キャサリンは肩をすくめた。
「わからないわ。妊娠するってことがどういうことなのか、知らないんだから」
「立原先生に相談しようか?」のぞみはいった。
「先生だって出産経験はないでしょ?」
「そうだけど、大人の女性だし、先生は妊娠できる体だわ。ほかにこういう話を相談できる相手もいないし」
「きくだけきいてみようか?」
「ええ」
ほどなく、礼拝堂に向かう生徒たちと出会うと、ふたりは話題を変えた。
ミサでミス・マリアとしての務めを果たしながら、のぞみはひとつの想いに心を奪われていた。
――わたしが子供を産む――
それはいままで想像もしなかったことだが、魅惑的な想いだった。