リレー小説『ラスト・フォーティーン』 第三一節「エデン」(前半)/諌山 裕

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 まっ白な空間。
 すべてが光に包まれ、ふわふわと漂っているような浮遊感。彼は自分の体が、妙に軽くなっていることに気がつく。軽くなっているのは体だけではなかった。意識もふわふわと脈絡なく彷徨い、体から分離しているようだった。
 彼は白いベッドに横たわる、自分を見ていた。目を閉じ、口を半開きにした彼の体は、やつれて血色が悪かった。頭や胸元には細いケーブルが差しこまれ、ベッドの脇の電子機器へとつながっていた。
 ピ、ピ、ピと規則的な電子音が、彼の鼓動に連動している。ディスプレイのひとつには、立体的な山脈の地形図が表示され、時々刻々と変化していた。
――脳波計だ。
 彼は思った。彼の思考に呼応して、山脈は高く立ち上がり、脈動した。
「意識が戻ったみたいだわ。といっても、夢を見ている状態に近いけど」
 どこかできいたことのある女性の声がした。
「大丈夫なんですね?」
 別の女性の声。彼はその声にひときわ親近感を感じた。
「あら、あなたの声に反応しているわ。きこえているのね」
 声の主は、クスクスは笑った。
「身体的な問題はないわ。出血は多かったけど、損傷はナノプローブが修復したから。数日後には起きられるはずよ」
 彼は会話をしているふたりを見ようとした。しかし、朦朧とした意識は、対象物を捉えることを拒絶していた。ぼんやりとしか見えないふたりは、光を背にしたシルエットとなっていた。
――誰だ?
 彼は言葉を発したつもりだったが、口は動かなかった。自分の体をコントロールすることができないのだ。
「達矢……」
 彼は自分を呼ぶ声に答えようとするが、水の中を泳いでいるかのように、手がかりもなくのろのろとしていた。
 彼女の手が、彼の頬に触れた。その温かい感触に、彼は安堵する。
 彼の意識は再び深い眠りに誘われる。
 閉じゆく意識の中で、彼は彼女が誰であるかを察した。
――のぞみ……
 ほどなく、脳波はなだらかな丘陵となり、思考を休止した。

 植物の見本市を思わせる様々な草木が、広い公園を埋めている。一見、無秩序なようだが、それぞれの植物のニッチや性質を計算して、不都合が発生しないようになっていた。自然の状態ではけっしてありえないような取りあわせだが、個々の美しさと人工的な秩序が絶妙な関係を生みだしている。
 達矢はぼんやりとベンチに腰かけて、不思議な公園を眺めていた。
「ここが……エデンか……」
 病室で目覚めたとき、彼は自分が生きているのか死んでいるのかわからなかった。激痛とともに大量の血を流したという記憶は鮮明にあり、死を覚悟したからだ。朦朧とした意識の中で、のぞみがそばにいたイメージは、死に際のフラッシュバックかと思っていた。
 目を開けて、のぞみの顔が飛びこんできたときも、生きている実感がなかった。理由は自分の身体がやけに軽く感じたからだった。
「おれ……、死んじまったのに……なぜ、のぞみがそこにいるんだ?」
 彼はろれつの回らない口調でいった。
「達矢、あなたは生きているのよ。もちろん、わたしも。ここは天国じゃないわ。エデンよ」
 のぞみは笑顔に涙を浮かべていった。
「エデン? それって、なんかの冗談か?」
 のぞみは首を振った。
「気がついたようね。ようこそ、エデンへ」
 のぞみの隣に、見覚えのある顔が並んだ。だが、見覚えのある顔に似ているものの、なにかが違うように思った。
「あんた……どっかで会ったように思うけど……違ったかな?」
「高原涼子、そういえばいいかしら? あっちの世界の私は、分身みたいなものよ。似ているけど、肉体的には別人ってとこね」
「高原?」
 達矢は思いだしていた。しかし、彼が見ている高原の髪はシルバー、瞳はグレー、手足がほっそりとしていて背が高い。彼よりも高く、一八〇センチはあるようだった。それでも顔つきや印象はたしかに高原に似ていた。
「いろいろと説明しなくてはいけないことがあるわ」高原はいった。
「ここは……エデンって?」
「エデンは月にある私たちの都市のことよ。そう、ここは私たちの楽園なのよ」
「月?」
 達矢は首を傾げながらも、身体が軽く感じることの理由だと思いいたった。
「なんで、おれとのぞみが月にいるんだ?」
「わたしたちだけじゃないわ。御子芝さんと高千穂さんもいるわ。それとロストしたと思われていたも過去のジャンパーも」のぞみが答えた。
「なんだって? どういうことなんだ?」
「ここはエデンだけど、時代は三〇世紀なのよ」
「三〇……だって?」
 達矢は眉間に皺をよせた。
「そういうこと。私たちはジャンパー達を救助しているのよ」高原はいった。
「救助? おれの聞き間違いか? 拉致しているんじゃないのか?」
 高原は苦笑した。
「そう思われても仕方ないけど、複雑な事情があるのよ、神崎くん」
「たしかに複雑そうだな。説明してほしいものだ。もっとも、そっちの言い分を鵜呑みにするつもりはないけどね」
「まずはゆっくり休むことよ。時間はたっぷりあるから、誤解も解けると思うわ」
「どうだか……」達矢は肩をすくめた。
 公園の木々の間を、色鮮やかな小鳥の群れが鳴きながら飛んだ。
 達矢は我に返る。
 月の楽園――エデン――
 作り物の楽園。青い空には雲が流れている。ホログラムの空だ。作為的な自然環境と、虚像の空。絵に描いたような楽園の風景だが、低重力が月であることを物語っている。
 彼は心が和むのを感じていた。エデンは人間が求め続けた、楽園の実現なのかもしれなかった。しかし、安心感を覚える一方で、どこか胡散臭いものにも思えた。
 もし、これが高原のいうように楽園であるならば、なぜ彼らは過去に干渉しているのか? なぜ彼らはこの世界に満足していないのか?
 達矢は、なにもかも見かけ通りには信用できないと思っていた。
「達矢!」
 彼は声に振り返った。のぞみが手を挙げて駆けよって来る。
 喜びに満ちた顔で、彼女は達矢の隣に座った。
「具合はどう?」
「まあまあ。痛みは引いたよ」
「よかった。一時はどうなるかと心配したの。でも、ここの医療は進んでるから」
「そうだね。二一世紀だったら助からなかっただろうな」
「あの……、ごめんなさい……。わたしのせいだから……」のぞみはうつむいた。
「気にするなって。君は正気じゃなかった」
 今は正気なのか?――彼は言葉には出せない疑問を抱いていた。
「エデンは素敵なところね。ここに来てよかったわ」
「本気でそう思っているのか?」
 のぞみはきょとんとした顔を向けた。
「だって、わたしたちが望んでいた楽園がここなのよ」
「ここは地球ではない。月に造られた、偽物の楽園だ」
「そんなことないわ。ここでは人々は平和に暮らしているし、人工的に管理しているといっても、理想的な環境じゃない」
 達矢はため息をついた。
「おれはそうは思わないな。草木や小鳥が本物でも、ここには存在しないはずの世界だ。こんな世界がおれたちの求めていたものだとは思えない。これではコロニーと変わらないよ。壁の向こうにあるのは、真空の宇宙じゃないか」
「全てを手に入れないにしても、十分なものがここにはあるわ。なにもかも人間が独占しようとした結果が、二六世紀の地球だったのよ」
 のぞみは淡々といった。それは誰かに吹きこまれたセリフを復唱しているような口調だった。
「たしかにそうかもしれない。じゃあ、エデンはそうではないとどうしていえるんだ? ここだって人間の都合に合わせた、積み木細工じゃないのか?」
「そんなことない! 月は不毛な世界よ。つまり、白紙のキャンパスだったの。わたしたちはこのキャンパスに、理想の世界を描いているのよ!」
 のぞみは語気強くいった。彼女らしくなかった。
「オーケー。君の言い分はわかった。では、なぜおれたちジャンパーを彼らは拉致しているんだ?」
「ジャンパーを救出しているの! 不幸な使命をおびて、駆り出された彼らを呼び戻しているだけよ! ジャンパーは過去に飛ぶべきではなかった。長い時間がかかってしまったけれども、人間はエデンを手に入れることになったのよ」
「呼び戻す? それは違うだろう? 三〇世紀に連れてくる必要がどこにあるんだ? 彼らの目的は、おれたちの任務の妨害だ。彼らにはおれたちの存在が障害なんだよ。だから排除している」
 達矢はのぞみと言い争いをしたくなかった。彼女が冷静になって、自分たちの置かれた状況を見てほしかった。
「違う! 違うのよ! 達矢……」
 のぞみは泣き顔になった。
「どういえば……わかってもらえるのかしら……。高原さん達は……わたしたちの間違いを正しているの。そのために……ジャンパーを連れ戻しているのよ」
「のぞみ、おれは高原を信用できない。第一に、なぜおれたちには自由がないんだ? 御子芝さんとも会わせてもらえないじゃないか。これでは篭の鳥と同じだ」
「それは……、この世界に適応してもらうためで、いろいろと学んでほしいからよ。閉じこめているんじゃないわ」
「学んではいるさ。だが、束縛されるのはごめんだ。まず、自由だ。制限なし、監視なしの自由が先だ。信用してほしいならね」
 のぞみはこくりとうなずいた。
「高原さんにお願いしてみるわ」
 彼女はゆっくりと立ち上がり、達矢に背を向けて去っていった。

 のぞみと達矢の様子をモニターで見ていた高原は、小さく首を振った。
「彼は問題ね。のぞみがいれば説得できるかと思ったけど、見こみ違いかもね。できれば自分から変わってほしかったわ」
「では、強制手段で?」高原の弟の涼樹(すずき)がいった。
「それは最後の手段よ。どのみち、ここにいればなにができるわけでもないわ。しばらくは好きにさせておくことよ」
「姉さんは優しいね。ぼくならさっさと問題を片づけるよ。問題といえば、御子芝と高千穂もだろう? どうするつもり?」
「彼らを会わせてあげましょう。自分たちになにもできないことがわかれば、少しは現実を受けいれる気にもなるだろうから」
「おやおや、ずいぶんと寛大なことで」
「ここはエデンよ。強制収容所じゃないの」
 高原涼子は天使の微笑みを浮かべていた。

 エデンは月の“静かの海”にある。地上に露出している部分もあるが、大部分は地下の都市となっていた。太陽から飛来する放射線を防ぐために、都市をすっぽりと覆うフォースフィールドが張られているが、地下の方がより安全性は高いからだ。
 人工都市としては巨大なもので、“静かの海”とほぼ同等の面積が都市化されていた。都市はさらに隣の“晴れの海”や“豊かの海”にも地下チューブでつながっている。“晴れの海”にはエリシュデン、“豊かの海”にはアヴァロンがある。いずれも楽園を意味する都市名だ。ひとつの都市に、一〇〇〇万人ほどが生活していた。
 地球はどうなっているかといえば、動物と植物の楽園となっていた。人間もわずかだが住んでいたが、文明レベルは後退し、機械文明以前の状態である。それは地球に残ることを望んだ人々の選んだ生き方でもあったのだ。
 月の人間は、月の環境――低重力に適応していた。筋肉をあまり必要としないために、ほっそりとした体形で、身長も高くなっていた。人工照明の下での生活のため、肌は色白で髪も脱色したようになっている。
 月人となった彼らは、もはや生身のまま地球に戻ることはできない。地球に降りる必要が生じたときには、ひ弱な肉体をサポートする動力付きのスーツを装着しなくてはならなかった。
 地球の価値は生物的資源としてのものであり、依然として不可欠な存在ではあるものの重要度は低かった。
 達矢は全天が見えるドーム展望室で、青い地球を見あげていた。
「あれが、地球か……。元に戻ったんだな。おれたちの任務は役に立ったんだろうか?」
「それはどう評価するかによるな」
 達矢の隣で腕組みをした御子芝がいった。
「長い年月をかければ、地球が自己修復能力で再生することは予想されていた。千年という時間がかかったわけだ。だが、その間に犠牲になったものは多い。この時代の楽園は、多くの犠牲の上に成り立っている。それを是とするかどうかだ」
「同感だな」
 高千穂は御子芝の腰に手をそえていった。
「月の人口は全都市をあわせて、三億くらいということだ。地球にいる人間は数千万らしい。かつてピーク時には一五〇億人がいたわけだから、五〇分の一になったわけだ。この楽園は数百億人の屍の上に建てられているということだ。とんだ楽園だな」
「のぞみがいうのも一理ある気がしてきたよ」達矢はため息をついた。
「おいおい、おまえまでそんな弱気でどうする?」御子芝はたしなめる。
「この世界がもっとも望ましい未来とは限らないぞ。私は気に入らないな」
「滅亡するよりはマシだけどよ。俺はそういう未来も見てきたんだ」と高千穂。
 御子芝は目を閉じ、思案してから口を開く。
「なにごとにも代償はつきまとうものだ。未来を救うといっても、なにをどう救うかによって、払う代償は違ってくる。千年待てばエデンのような世界が実現するからといって、では二一世紀の世界でなにもしないでいることが望ましいとは限らない。その時代を生きている人々にとっては、切実な問題だからだ。すべてを救うことは不可能だが、最善の努力をすべきではないだろうか?
 エデンの人々にとっては、二一世紀のことなど遠い過去の世界だ。とっくに死んでしまった人々のことを、誰も問題にはしない。彼らはわれわれが過去に干渉することで、楽園への筋書きが変わってしまうことを恐れているのだろう。それもわからないではない。“今”を生きるものには、今こそが現実だからだ」
 達矢はうなずきながらも、顔をしかめていた。
「そこなんだよ。彼らはなにを恐れているんだ? すでにおれたちは過去の人間じゃないか。だったら、この世界に通じる歴史の中に組みこまれているんじゃないのか? おれたちがなにをしたにしても、いまさら排除して、どうするつもりなんだろう?」
「なるほど……」御子芝は右手を頬にあてた。
「なにか、別の思惑があるのかもしれないな」
 高千穂は不敵な笑みを浮かべる。
「高原を直接攻めてみるのがいいな。本音を探るために」
 三人は顔を向かいあわせてうなずいた。
 達矢にはひとつだけ確かな決意があった。
 二一世紀に戻りたい――。
 彼は学園のある時代を、愛おしく思っていた。

 暗くかすかな冷気が漂う部屋に、高原は入った。部屋全体を照らす明かりはなく、床面に直径一メートルほどの光を発している場所がある。彼女は光る円形の中に立った。暗闇の中に、彼女の姿が浮かびあがった。
「高原涼子、出頭しました」
 声は反響して、エコーがかかる。
「枢機評議会は計画の遅延を懸念しているぞ、高原科学院主幹」
 威圧的な声――声には女性的なものと男性的なものが混在している――が、暗闇から響いた。高原は背筋に冷たいものが走っていた。
「はい、申し訳ございません。すでに報告の通り、イレギュラーが発生しまして……」
「言い訳はやめよ。植民計画は早期に実現されねばならぬ。われわれに残された選択肢は少ないのだ。時間はたっぷり与えたはずだぞ。おまえは何年生きておる?」
「は……、七〇年になります」
「ふむ、もうそんなになるか。人の三倍は生きておる。いくつ肉体を与えれば、目的を達成できるのだ? 肉体を持てぬものは大勢いるのだぞ」
 高原は深々と頭を下げた。
「肉体の保持者としての栄誉を汚さぬように、努力します」
「特権を与えられていることに感謝せよ。数百億の魂が電磁界メモリの中で、肉体を得る日を待ちわびているのだ。おまえのようなひ弱な肉体ではなく、ひとつの肉体で百年生きられる肉体をな。肉体の供給源は、人類にもっとも活気のあった時代、二二世紀から二三世紀が最適なのだ。われわれが過去に植民するためには、二一世紀の障害を取り除かなくてはならない。ミレニアムイヴを」
「十分に承知しています。いましばらく猶予をください」
「よかろう。しばらくはおまえが肉体に留まることを許そう」
「はい、光栄に存じます」
 声の気配は闇の中に消え、高原は安堵した。

〈つづく〉