リレー小説『ラスト・フォーティーン』 第三四節「始まりのエピローグ」/諌山 裕

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 九組のつぶらな瞳が、彼女に注がれていた。遊び盛りの子供たちだったが、彼女が物語を語ってきかせると、騒ぐこともなく夢中になっていた。
「のぞみおばあちゃん、それからどうなったの?」
 子供たちの中で一番の年上である少女、ニコールがきいた。彼女はキャサリンの娘だ。ニコールは母親似で、サラサラの金髪に優しくも気丈な顔立ちはキャサリンにそっくりだ。
 同時期に妊娠していた、理奈、ジャネット、キャサリンの中で、キャサリンが最初に産んだのだ。しかし、キャサリンはもともと虚弱体質であったことも一因となり、出産にともなう衰弱と合併症で一時は危篤状態に陥った。幸いにも一命を取り留めたが、もう妊娠はできない体となった。傷心の彼女をはげまし、心の支えとなったのがゲーリーであり、のちにふたりは結ばれた。
 子供たちは十歳から五歳までの九人がいる。
「子供たち! のぞみおばあちゃんを困らせないのよ!」
 キッチンで料理をしている春奈がいった。キッチンには理奈と菅原もいた。リビングではジャネット、キャサリン、美咲がテーブルの準備をしている。
「だって、おはなしがききたいんだもん」
 春奈の子供である、達巳が口を尖らせた。春奈は未婚の母だった。アメリカに留学したときに出会った、同じく留学生だったドイツ人青年との子供だ。
「いいのよ、春奈。子供たちと話してると、いい物語が書ける気がするの」
 のぞみは三〇代半ばにして孫が生まれ、おばあちゃんと呼ばれようになっていた。始めのうちは抵抗があったものの、家族に囲まれていることに喜びを感じていた。
 今日は年になん度か集まる、ホームパーティーとなっていた。クリスマスやハロウィン、そして日本の行事としての盆と正月。特に重要なのが、八月だった。八月はのぞみと達矢、菅原拓郎と美咲の結婚記念日、郷田義章の命日があるからだ。
 郷田は二年前に、六三歳という若さで他界した。彼はのぞみたちの親同然の存在であり、彼にとっても彼らは子供同然だった。彼の遺志と財産は、彼ら――のぞみ、達矢、理奈、光輝、アンドルー、ジャネット、キャサリン、ゲーリー――に託された。
 八月には彼ら八人とその子供たちに加えて、菅原一家が参加して盛大なパーティーが行われる。今日はその大切な日なのだ。
 旧郷田邸には、萩原達矢、のぞみ、春奈、達巳の一家が住んでいた。パーティーはここで催される。
 広いリビングには、仲間たちとその家族が集っていた。妻たちがパーティーの準備をしている一方で、夫たちはスポーツの話題に談笑し、子供たちはのぞみを取り囲んでいる。それぞれの家族は郷田の所有していた土地に居を構え、普段から家族同然のつきあいをしていた。
 のぞみは大家族の中の中心的な存在となっていた。彼女は家族に囲まれて幸福感を感じていた。萩原恵羽として作家業をする彼女にとって、家族はなによりも大切なものだった。
「おばあちゃんとおじいちゃんの、けっこんのおなはなしがききたいな」達巳がねだった。
「そう? 前にも話したと思うけど?」のぞみはいった。
「うん、でもね、もういっかいききたい。しらないひともいるよ」
「ぼく、しらない」菅原の息子の拓也がいった。
「いいわ。じゃあ、その話をしましょう」
 のぞみは懐かしむように話し始めた。

 高原邸への侵入作戦から一週間後。郷田邸のリビングには一同が集まっていた。郷田、菅原、立原、理奈、キャサリン、ジャネット、アンドルー、ゲーリー、光輝、そして高原涼子の十人である。
 全員が集まったのには訳があった。高原邸で出会った春奈が、引き合わせたい人がいるといったからだった。郷田はディナーをセッティングして、彼らを招待していた。招待は午後七時の予定だった。
「そろそろかしら?」
 理奈は時計を見ていった。七時十五分前である。
「その春奈って子、ここの学園の生徒なのよね。一学年下だけど。いままであまり目立たなかったのが不思議。きけばけっこう可愛くて人気者だっていうじゃない。ミス・マリアの候補になってもおかしくなかったのに」
「候補の一歩手前らしかったわよ。気になって調べてみたら、サーバーにデータを改竄した痕跡があったわ。意図的にはずしたのよ。しかもわざと痕跡を残していた。探られることを予期していたんだわ」とジャネット。
「涼子さんはなにか知ってる?」理奈がきいた。
 涼子は首を振った。
「詳しいことはなにも。ただ、彼女が來視能力者らしいということだけよ。以前の私にコンタクトを取ってきたのは、あの子なのよ」
 立原が口を開く。
「学園の資料によると、彼女の両親は萩原隆一さんと恵羽さん。ふたりとも孤児だったとかで、カトリック教会の神父の養子となってたわ。その神父さんはすでに亡くなっていて、春奈さんが中学生になるのを期に、この町に越してきたとのことよ」
「萩原恵羽? 作家の?」とキャサリン。
「そこまでは記載されてないわ」
「あり得るかもね。珍しい名前だし、作品の内容からして、関連性はありそう」キャサリンは興味津々にいった。
「ところで」と、理奈はいたずらっぽい笑みを立原に向けた。
「先生たちの結婚式はいつなんですか?」
 立原ははにかんだ。彼女を見た菅原が代弁する。
「ええっとだな……、まだプロポーズから日が浅いので、まだ具体的にはなにも決まっていないんだ」彼も照れている。
「八月がいいんじゃない? 夏休みだし、その頃にはあたしたちも出産が終わっているから、出席できるわ」ジャネットがいった。
「賛成」と理奈。
「式は学園の礼拝堂がいいですね。生徒たちも参加できるし」キャサリンは提案した。
「ちょっと、あなたたち! 勝手に話を進めないで」立原は額に手を当てて困惑していた。
 一同の間に笑いが広がった。
 玄関のチャイムが鳴る。笑い声は中断された。
「来たようね」理奈は真顔になった。
「わしが出迎えよう。みんなは待っていてくれ」郷田は席を立ってリビングを出ていく。
 玄関で郷田と来客が、なにごとかを会話している声がきこえる。郷田が「おおっ」と驚きの声をあげていた。郷田はなかなか戻ってこなかった。リビングにいる彼らは聞き耳を立てていたが、内容は聞き取れなかった。
 皆の注目がリビングの入口に集まる。郷田はひとりで部屋に入ってきた。彼は驚きを隠せないといった表情をして、無言のまま自分の席に座った。
「郷田さん? お客さんは?」理奈はしびれを切らしてきいた。
「うむ……、来ているよ。すぐに……」
「は~い!」と明るい声とともに、少女がリビングに入ってきた。
「春奈です! こんばんは!」
 春奈は学園の制服姿だった。もともと短めのスカートなのだが、彼女はさらにミニスカートにしていた。
「この間はどうも。アンドルー、光輝、ゲーリー」彼女は三人に笑みを送った。
 理奈は唖然としていた。ショートヘアの春奈だが、髪を伸ばせばのぞみに似ていると思ったからだ。
「の、のぞみ?」理奈は思わず口走った。
 春奈は意味深な笑みを理奈に向けた。
「理奈、わたしはのぞみじゃないの。でもね、もうさっきから泣いてるのよ、わたしのママは」
 春奈は跳ねるようにリビングから出ていく。
「ほらほら、みんな待ってるよ」春奈の声だけがきこえた。
「ママって……?」
 理奈は状況が把握できないにもかかわらず、なぜか涙があふれてくるのだった。郷田に目をやると、彼も目が潤んでいた。
 ほどなく春奈はふたりの手を引いて戻ってきた。
「わたしのパパとママです」
 現れた大人の男女を、一同は凝視する。沈黙と思考の時間が数秒流れる。やがて、ふたりが誰であるかに思いいたる。
「んもう、じれったいなー。のぞみと達矢、わたしの両親よ。ちなみに、表向きの名前の恵羽と隆一は偽名よ」春奈は一同の疑問に答えた。
「のぞみ? ほんとに、のぞみなの?」理奈の声は震えていた。
 うつむいていたのぞみは顔を上げた。
「ええ、そうよ、理奈。やっと会えた……」
「久しぶりだ、みんな。ずっと君たちを見守っていた」達矢がいった。彼の声は声変わりして太くなっていた。
 理奈はのぞみに駆けよる。のぞみは両手を広げて彼女を受けとめた。ほかの者もあとに続いた。のぞみと達矢を囲んで、再会の抱擁が繰りかえされた。
「どうして、どうして連絡をくれなかったの?」理奈は泣きながらきいた。
「あなたたちの行動に干渉しないためよ。辛い経験もあったけど、それは必要なことだったの」のぞみは答えた。
「達矢! この野郎! のぞみと結婚したのか?」ゲーリーはうれし泣きしながら、達矢をこづいた。
「すまない、ゲーリー。抜け駆けしちまった。でも、籍は入れてるが、結婚式はしてないんだ。いろいろと事情があってな」と達矢。
「あなたたちが戻っていたなんて。ダメだと思っていたのよ。ほんと、よかったわ」高原はいった。
「高原さんもこっちに来られてよかったよ。でも、御子芝さんと高千穂さんは……ふたりは戻れなかった。ガブリエルに阻止されてしまった」達矢は苦々しくいった。
「そう……、それは残念だわ。責任の一端は私にもあるわね。力不足だった……」高原はうなだれた。
「おいおい」とアンドルーは注意をうながす。
「再会はもちろんうれしいが……。どういうことなんだ? 三〇世紀での顛末は高原からきいたが、のぞみと達矢は何歳になったんだ? 立原先生と同じくらいに見えるが? なぜなんだ?」
「二九歳だ」と達矢。
「つまり……」理奈の目が輝いた。
 のぞみが理奈にうなずく。
「ええ、わたしたちに二六世紀人の老化現象は起こらなかったのよ。始めのうちはそれを心配していたの。一九八八年に戻って、一年ほど様子を見ていたけど、顕著な症状は現れなかったわ。でも、いつまで保つかはわからなかった。それで達矢ともいろいろ相談して、メッセンジャーとして子供を生むことにしたの。一六歳の時よ。あなたたちが学園に来る頃に、春奈も中学生になるという計画だったの」
「はい、そのメッセンジャーがわたし!」春奈は明るくいった。
 再会の喜びにリビングは活気づいた。次々と質問が達矢とのぞみにぶつけられ、ふたりはかいつまんで経緯を説明した。テーブルについてディナーを食べながらも、達矢とのぞみを中心に積もる話は尽きなかった。
 デザートを食べ終え、コーヒーや紅茶をすするころになると、話題は達矢とのぞみの経験談から、現在のそしてこれからのことに変わっていった。
「あたしたちも大人になれると思う?」理奈はきいた。
 のぞみが答える。
「その可能性が高いと思うわ。DNA検査をしてみるといいかも。この時代だとまだおおざっぱなことしかわからないけど、未来で改造されたDNAが残っているかどうかくらい、わかるかもしれない。もし、それが消えているなら、リセットされていると思うの」
「時空転移をすると、DNAが変異するというのも新しい発見だな。誰もそんなことは予測しなかった」とアンドルー。
「これは推測だが」達矢が口をはさむ。
「遺伝子と時間は密接な関係にあるんじゃないかと思う。そもそも遺伝子のシナリオは、未来のシナリオでもあるからな。用途が不明だった反復配列は、未来からの情報をキャッチする役割をしているのかもしれない。人間がそこに無理矢理情報を詰め込んだために、遺伝子は機能を制限されてしまった。その結果が、著しい劣化現象だったとも考えられる」
「筋が通る仮説ね。遺伝子が時間に対してチャンネルを持っているとすれば、時空転移することで影響を受けることは十分考えられるわ。ミッシング・トリガーがなんであるにしても、あたしたちが過去に飛ぶことが必要だったのね。この子を生むために」ジャネットは自分のお腹をさすった。
 光輝はジャネットの肩を抱きよせる。
「そうだね。來視能力のことも、これで説明ができるよ。遺伝子の時間チャンネルが、アクティヴメモリとして働いているんだ」
「しかし」とアンドルーは眉をひそめる。
「ガブリエルをやっつけたわけではない。奴はこれからも過去に干渉してくるはずだ。それとどう対抗するかだな」
 キャサリンが身を乗り出す。
「それなんだけど、神話や伝説に登場する神や悪魔と呼ばれるものは、ガブリエルなのかもしれないわ。認めたくはないけど、聖書に出てくる神も。神はときに人々に福音をもたらすけど、ときに罰として人々を犠牲にしてきた。信じる神の違いが原因で、幾多の戦いが行われて、多くの人々が死んだことも事実よ。電磁界寄生体にとって、人々の魂は資源なのかも」
「魂を食ってるってことか? 救済じゃなくて吸収か? 天国というのは幻想だな」とゲーリー。
 高原が遠慮がちに口を開く。
「誤解してほしくないんだけど……。ガブリエルはすべてが悪ではないと思うの。彼が神の代役をしたとしたら、それで救われたこともあるんじゃないかしら? 月のエデンはある意味では理想の実現だったのよ。彼は人間を利用しているけど、けっして滅ぼそうとしているんじゃないの」
「高原さんがそういいたいのは、わかるよ。でも、問題はガブリエルは神ではないということだ。奴が人間を支配して、歴史に干渉する権利はない。人間の体の中には、いろんな微生物が共存しているし、利用もしている。人間と電磁界寄生体の関係が、共生関係だとしても主導権は人間にある。奴の都合で生き死にを左右されるのは面白くないね」達矢はいった。
「あたしたちにできることは、なにかしら?」理奈はため息交じりいった。
 ため息がいくつもつかれた。
「難しい問題だな。オレたちにできることは限られている。直接的にはガブリエルを叩くことだが、それは実現性が乏しい」アンドルーは首を振った。
「あのね」のぞみは皆の顔を見る。
「わたし、これまで生きてきて、実感したことがあるの。なんていうかな、人間らしく生きるっていうか、精一杯生きてきたの。春奈が生まれてからは、この子のためにも未来をよりいいものにしたいと思うようになったわ。
 でも、誰もがそう願っていても、世界のどこかでは戦争が起こっているし、飢えや貧困が蝕んでるわ。科学が進歩して、世の中が便利にはなったけど、人間が人間であることを忘れているように感じることもある。政治が腐敗して、社会が病んでくると、人々の心も歪んでいく。そういうときに未来から意識転送の植民が行われたら、誰も気がつくことなく乗っ取られてしまうと思うの。
 わたしたちの知っている未来では、アメリカが世界の主導権を握ってしまって、世界秩序を左右する暴君になってしまったわ。そして世界大戦の引き金にもなった。アメリカが衰退すると、今度はアジアが世界の覇権を握ったわ。その繰りかえしで、世界は疲弊していったのよ。そこにガブリエルが介在したとしても、潜在的に人間の心に付け入る隙があったのよ。
 わたしたちは人間として、もっと成長しなくてはいけないわ」
「それって、『未来の遺伝子』にも書いていたことね」理奈はうなずいた。
「ええ。で、現実的にどうするかといえば、子供たちを望ましい方向に導いて育てることだと思うわ。子供は親を、大人を見て育つものよ。大人にモラルや人間性が欠如すれば、子供もそれを真似するわ。社会の歪みはその連鎖で拡大していく。未来を変えられるとしたら、それは子供たちなのよ。大人はそのことを忘れているか、気がついていないと思うの。自覚が足りないのよ」
「天原学園はいい学校だけどね。こういう学校がもっとあるといいな。親としては安心できるんだ。高校も造りませんか? 郷田さん」達矢はいった。
 突然話を振られた郷田は苦笑いする。
「そうだな、前向きに考えよう」
「ところで」理奈は話題を変える。
「達矢とのぞみは、結婚式はしてないっていったよね?」
「ああ、それどころじゃなかったんだ。春奈が生まれたときは、十六歳だったし」達矢は頭を掻いた。
「それならさ、これから結婚式したら? 再会できたわけだし、あたしたちも出席できるじゃない。そうそう、立原先生と菅原先生の結婚式と一緒にしよう!」理奈はパンッと手を叩いた。
「いまさら……」と達矢。
「わたしも賛成! パパとママの結婚式なんて、素敵!」春奈は喜んだ。
「のぞみだって、ウエディングドレス着たいでしょ?」理奈はきいた。
「ええ……まぁ……」
「決まり!」
「おいおい、僕たちはまだ……」菅原は口ごもった。
 理奈は菅原をさえぎってきく。
「立原先生、いいですよね?」
「そうね、それもいいかもね」立原は快諾した。
「え? そうなのか?」菅原は唖然としていた。
「菅原先生、こういうのは女性の方が主導権を握るもんなんですよ」郷田は笑った。
 話題は結婚式のこととなり、女性たちの熱の入った話しが展開される。男性たちは成り行きを見守るだけだった。

 夏――。
 理奈にとっては二一世紀で迎える二度目の夏だ。彼女は無事に出産を終え、新しい命を腕に抱いて庭のベンチにたたずんでいた。
「もう一年経ったのよね。なんか、ずいぶんいろいろなことがあったわ」
 学園も郷田邸の庭園も緑が萌え、せわしない蝉が鳴いている。
「ほんと、たった一年だけど、ずいぶん変わったわね」ジャネットも赤子を抱いていた。
「わたしたちの変化は時間の経過だけではないわ。もっと深い意味があるのよ。行き詰まった未来からこの時代に来て、わたしたちは生きることの意味を知った。未来にいても、それなりに生きがいはあっただろうけど、こことは較べものにならないわ」
 ドレスアップしたキャサリンの腕には赤子はいない。彼女は早産だったために、子供はまだ保育器の中なのだ。
 スーツ姿の少年たちが、庭に入ってくる。
「迎えに来た。いいか?」とアンドルー。
 理奈は立ち上がると、アンドルーにエスコートされていく。光輝はジャネットに、ゲーリーがキャサリンのそばについた。
 彼らは礼拝堂へと向かった。
 ポプラ並木を歩きながら、さまざまな想いが巡る。これまでのこと、これからのこと。彼らは十五歳になったばかりだ。過去に向かって飛び立ったときには、予想だにしなかった経験を経て、新たな人生を歩き始めていた。
 未来人には不可避の運命だった早期の老化は訪れないかもしれないが、彼らが二一世紀の人々と同じように寿命を全うできるとは限らない。彼らはこれからの人生を、神からの贈り物と考えていた。神とは無論ガブリエルのことではない。彼らをここに導いた、運命こそが神なのだ。
「あたしたちも十八歳になったら、ここで結婚式をしようね」理奈はいった。
「みんなで一緒にか?」アンドルーは微笑む。
「もちろん。みんな家族みたいなものでしょ」
「家族か。未来には欠けている連帯感だな。どうしてこれほど大切なことを忘れてしまったのだろう」
「それがそもそもの間違いなのかもね」
 彼らが礼拝堂に着くと、入堂する出席者の列ができていた。スーツやドレスに交じって、学園の制服も多い。
「学校のミサみたいね」ジャネットはいった。
「にぎやかでいいんじゃない? 立原先生も菅原先生も人気者だから」と光輝。
 彼らが礼拝堂に入ると、拍手で迎えられた。出産した彼女たちへの祝福だ。彼らは拍手の中を進み、最前列に腰かける。
 出席者が席につくと、礼拝堂の外側と内側の入口が閉じられた。ざわざわしていた堂内が静かになる。
 張りつめた緊張感に、流れる時間の感覚が速くなる。十五分ほどの待ち時間は、瞬く間に過ぎていく。
 パイプオルガンが旋律を奏で始めた。メンデルスゾーン作曲の“結婚行進曲”である。馴染みのある曲だが、聖堂のパイプオルガンできくと、まったく違ったものにきこえた。
 聖堂の内側の扉が開く。列席者は起立し、視線が開いた入口に集まった。
 まず入ってきたのは、菅原と立原の兄弟と両親だ。続いて証人となる夫妻。そのあとに新郎新婦である、菅原とウエディングトレスの立原が続く。しばらく間をおいて、郷田を先頭に達矢とのぞみが現れた。兄弟も両親もいないふたりのために、郷田が親代わりとなったのだ。最後に式を取り仕切る司祭が続いた。
「のぞみのウエディングドレス、とっても綺麗」理奈は自分のことのようにうれしかった。
 入堂が終わると、司祭が挨拶を始める。
「父と子と聖霊の御名によって」
「アーメン」列席者一同が唱和した。
「主イエス・キリストによって、神である父からの恵みと平和が皆さんとともに」と司祭は続けた。
「また司祭とともに」一同の唱和。
 さらに司祭は続ける。
「皆さん、私たちは喜びのうちに今日の日を迎え、達矢さんとのぞみさん、そして菅原拓郎さん立原美咲さんを囲んで、主の家に集まっています。お二組はいま、新しい共同体をつくることを望んでいます。この厳粛なときに当たり、ともに祈りをささげ、今日、神が語られる言葉をお二組とともにききましょう。そして、父である神がお二組を祝福し、いつまでもひとつにしてくださるよう、教会とともに、私たちの主・キリストを通して願いましょう」
 一同は沈黙して祈願する。
「天地の創造主である神よ、あなたは世の初めに、命あるすべてのものを祝福し、それらの一致を強く望まれました。いま、結婚の誓いをかわす達矢とのぞみ、拓郎と美咲を、豊かな祝福で満たしてください。ふたりが心をひとつにし、互いに受け入れ合い、あなたの愛の証となることができますように。
 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって」
「アーメン」
 列席者は着席した。
 式次第にそって、儀式はおごそかに進められていく。聖書の一節が朗読され、感謝と祝福が讃えられる。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」(新約聖書 第一コリント十三章四節~八節)
 そして聖歌「妹背を契る」を歌う。

“妹背(いもせ)を契(ちぎ)る 家のうち
 わが主も共に いたまいて
 父なる神の 御旨に成れる
 祝いの筵(むしろ) 祝しませ
 
 今し御前に 立ち並び
 結ぶ契りは 変わらじな
 八千代も共に 助け勤(いそ)しみ
 真心尽くし 主に仕えん
 
 愛の礎(いしずえ) 堅く据え
 平和の柱 直(なお)く立て
 神の御恵み 常に覆えば
 幸い家に 絶えざらなん
 
 きよき妹背の 交わりは
 慰め永遠(とわ)に 尽きせじな
 重荷も幸も 共に分かちて
 喜び進め 主の道に”

 さらに司祭の説教が続いて、いよいよ結婚の儀へと入る。
「達矢さんとのぞみさん、拓郎さんと美咲さん、お二組はここに集う私たちの前で、結婚の意志を聖なるしるしによって固めていただくためにおいでになりました。キリストはお二組に豊かな祝福をお与えになり、いつまでも互いに忠実を守り、夫婦としての務めを果たしていくことができるようにしてくださいます。またキリストは、ご自分がすでに洗礼によって聖なる者とされたお二組に、結婚の秘跡によってさらに恵みを与え、強めてくださいます」
 司祭はまず、達矢とのぞみに視線を向けた。
「達矢さん、のぞみさん、おふたりは自らすすんで、この結婚を望んでいますか?」
「はい、望んでいます」ふたりは答えた。
「結婚生活を送るにあたり、互いに愛し合い、尊敬し合う決意をもっていますか?」
「はい、もっています」
「おふたりの家庭に恵まれる子どもを神からの恵みとして心から受け入れ、キリストとその教会の教えに従って育てますか?」
「はい、育てます」
 司祭は小さくうなずき、菅原と立原にも同様の問いかけをし、返答を得る。そして司祭は二組のカップルに、手を取り合うようにうながした。
 達矢とのぞみは向かい合い、手を取りあった。
 司祭が問いかける。
「達矢、あなたはのぞみを妻としますか?」
「はい」達矢は答えた。
 司祭の問いかけは続く。
「順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、夫として生涯愛と忠実を尽くすことを誓いますか?」
「はい」達矢は力強く返事をした。
 司祭はのぞみに顔を向ける。
「のぞみ、あなたは達矢を夫としますか?」
「はい」のぞみの声は震えていた。
 司祭は続ける。
「順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、妻として生涯愛と忠実を尽くすことを誓いますか?」
「はい」
 のぞみは潤んだ目で、はっきりといった。
「私は、おふたりの結婚が成立したことをここに宣言いたします。今、私たち一同の中で交わされたおふたりの誓約を、父と子と聖霊の御名において揺るぎないものとし、祝福で満たしてくださいますように」
 司祭は小声で「指輪を」といった。
 達矢はポケットから指をを取りだすと、のぞみの左手薬指にはめる。
「この指輪は、ぼくたちの愛と忠実のしるしです」
 続いてのぞみが、達矢の左手薬指に指輪をはめる。
「この指輪は、わたしたちの愛と忠実のしるしです」
 のぞみは感極まって大粒の涙を流していた。達矢の目にも涙があふれていた。
 司祭はふたりに微笑みかける。
「教会は、キリストの名によって、このふたりの愛のきずなのしるしを祝福します」
 今度は菅原と立原に向かって、司祭は同じ文言を繰りかえす。達矢とのぞみよりも緊張気味に、ふたりは誓いを交わす。
 菅原は立原の指に、指輪をはめた。
「この指輪は、わたしたちの愛と忠実のしるしです」
「はい……」
 立原は震える声で指輪を受ける。
「この……指輪は……、わたしたちの……愛と忠実の……しるしです」彼女の声は涙に濡れていた。
「教会は、キリストの名によって、このふたりの愛のきずなのしるしを祝福します」司祭は締めくくった。
 達矢とのぞみは、拍手した。列席者からも拍手が沸き上がった。
「祝福のキスを!」誰かが叫んだ。
 達矢はのぞみにキスをする。
「先生たちも!」
 菅原は顔を真っ赤にしながらも、立原に顔を寄せる。彼女は恥ずかしさにうつむいていた。彼はそっと指先で彼女の顎に触れ、顔を上に向けさせる。
「いいですか?」彼は小声でいった。
 立原はうなずく。菅原は唇を重ねた。
 歓声と拍手がいっそう大きくなった。
 礼拝堂の鐘が、祝福の場に加わった。
 喜びと感動が時間と空間を――そして、未来を満たしていた。

最終節「未来へのプロローグ」

 イエス・キリストが山上の垂訓として、次の八つの真の幸福――真福八端を語っている。

“第一は、自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだから。
 第二は、悲しむ人は幸いである。その人は慰められるであろう。
 第三は、柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐであろう。
 第四は、義に飢えかわく人は幸いである。その人は満たされるであろう。
 第五は、あわれみ深い人は幸いである。その人はあわれみを受けるだろう。
 第六は、心の清い人は幸いである。その人は神を見るだろう。
 第七は、平和をもたらす人は幸いである。その人は神の子と呼ばれるであろう。
 第八は、義のために迫害される人は幸いである。天の国はその人のものだからである。”

 これに第九番目の言葉を加えよう。

“第九は、未来を切り開くものは幸いである。未来はその人によって創られるからだ。”

〓〓〓【ラスト・フォーティーン/完】〓〓〓