カリカリという小さな音がはてしなく続く、緊迫した空気に占領された教室で、生徒たちは本分である学習の成果を示す試験に取り組んでいた。
天原祭が終わるとすぐに学園は中間考査のテスト期間に突入する。生徒にも教師にものんびりする暇は与えられない。天原祭で浮かれきった気分を引きずったまま、試験に突入してしまう生徒も少なくなかった。
そんな生徒たちの尻をたたき、勉強へと向かわせながら教科ごとの試験範囲の取り決めを行ったり、手分けして試験問題を作成したりと教師たちも連日遅くまで職員室に残り仕事をこなす日々が続くのだ。
そんな日々も、あと数十分で終わりを告げる。
青く澄んだ空が美しい。
菅原は教室の窓から見えるどこまでも続く青空に深まる秋を感じていた。
普段は特別教室で授業をしている菅原は、滅多に足を踏み入れることのない二年一組の教室で試験監督を任されていた。
この時間が終われば、中間考査の全ての日程が終わる。三日にわたって行われる試験の最終日、最後の科目は理科だ。
開始から十分程しか経っていないこの時間は、まだ生徒達は問題に集中しているため、菅原はなるべく音を立てないように注意しながら机間巡視をする。
試験監督は、暇との戦いだ。
菅原は、3ヶ月ぶりに入った二年一組の教室の様子を眺めたり、窓の外に視線をやったりしながら時間を過ごす。
天原学園の試験監督中の決まりごとでは、監督中に他の仕事などをすることは禁止されている。試験中の不正行為の取り締まりや不測の事態の収拾に努めるのが、監督を任された教師の役目だ。
とは言え、不正行為も不測の事態もそうそう起こることではなく、せいぜい生徒が落とした消しゴムを拾ってやったりするくらいしか監督の仕事はないのだ。
それでも菅原は家庭科教師で、一般教室に入る機会が少ないぶん、教室の後ろに掲示してある生徒の書道作品や忘れ物記録グラフを見て、時間を潰せるぶんましと言えるだろう。
天原祭が終わったばかりのこの時期には、どの教室にも写真が掲示されていて、焼き増しして欲しい写真の下に生徒の名前が書かれていたりする。二年一組も例外ではなく、やはり写真が張り出してあった。
菅原の目に留まったのは、立原のセブン・オブ・ナイン姿の写真だった。
なんで、ここにはこんな写真があるんだ。 彼は、叫びだしたい気持ちをぐっと押さえる。菅原がどんなに頼んでも立原はそのコスプレ姿を写真に撮らせてくれなかったのに、この教室には少し照れ臭そうにした立原が二年一組の生徒とおぼしき数名と写真に収まっているのだ。
やっぱり、よく似合っているよな。
あまり長い時間一ヶ所でじっとしていては、生徒に不審がられるため、菅原は、急いで胸ポケットに差してあるボールペンをとりだすと、その写真の下に自分の名前を書き込んだ。そして、何食わぬ顔で机間巡視を再開する。
待望の写真を手に入れられる喜びが、菅原の表情を緩ませた。
理科や社会の試験は、問題を解き終わる時間に生徒によってかなりの差があり、そろそろ全てを解き終わった生徒がではじめたころ、教室の扉が静かに開いた。
教科担当の教師は、試験中に各教室をまわり生徒の質問に答えたり、内容がわかりにくい問題に関しての注釈をしたりするのだ。二年一組には副担任でもある立原が現れた。
「ご苦労様です」
二人は小声で挨拶を交わした。
「えー、問五の括弧二の問題ですが、一部印刷が薄くなっていて読みづらいという指摘がありました。その部分は記号で答えないさいとなっていますので、答えは記号で書いて下さい。他に質問があるものは挙手してください」
立原は手を上げた数名の生徒のもとへ行き、なにやら生徒の質問に答えている。挙手している生徒がいなくなると、しばらく机間巡視をしてから「それじゃ、最後まで頑張って取り組んで下さい」生徒達に言葉を残し、菅原には「よろしくお願いします」と声をかけて教室を後にした。
担当教師の巡回が終わると、それまで漂っていた緊迫した空気が少しだけ薄れる。特に理科や社会といった教科は、知っているもしくは覚えている部分を答えてしまえば、後は手の打ちようがなく、時間だけを持て余すものだ。立原が訪れる前から、すでに問題を解き終えたらしい生徒達が手持ちぶさたに、答案用紙の裏に落書きをしたり、机に俯せていたりする姿があった。
さらに時間が経過した今、大半の生徒が問題を解き終えたのであろう彼らの頭の中は、すでにテスト終了後の予定でいっぱいなのが、簡単に見て取れる。
そんな中、菅原に注がれている三つの視線があった。やはり早くから問題を終わらせた様子の津川光輝と綾瀬理奈、加えてジャネット・リーガンの三人だ。
試験監督中、暇を持て余した生徒の視線が痛いのはいつものことだが、今、この三人が菅原におくっている視線は、慣れ親しんだ感覚とは違うもっと真剣なものだった。全てを見通そうとでもしているようなその眼差しに、さすがの菅原も戸惑いを覚える。
食材の品定めをするのは好きだが、自分がここまで品定めされるのは、どうもいたたまれない。
教壇に戻りながら菅原は思う。
言いたいことがあるのならば、はっきり言って欲しいものだ。
試験の最中でなければ、菅原は三人に問いただしていただろう。それくらい三人の視線は菅原に絡んでくるのだ。
教壇の左側の壁に掛けられている時計の針が、ぴくりと一目盛動く。この時限も残り僅かだ。カタカタと小さな音を立てて、鉛筆や消しゴムを片づけ始める生徒もいた。
かちっ。スピーカーがオンになる僅かな音が聞こえたすぐ後に、終了を告げるチャイムが鳴り響く。
生徒たちの大きなため息が聞こえた。
「はい、じゃあ鉛筆を置いて、クラス、出席番号、名前、きちんと記入してあるか確認したら、答案用紙のみ速やかに後ろから回収して提出」
菅原は、お決まりの台詞で生徒に指示を出す。長く退屈な試験監督の任からようやく開放される安堵感で、生徒同様彼自身もホッとしていた。
集められた答案用紙の番号と名前を簡単に確認する。
「それでは、終わります」
菅原の合図に、クラス委員の号令で挨拶を済ませると、生徒達は今終わったばかりの試験の内容について話ながら、席を移動し、帰り支度に入っていく。
菅原は、出席簿と答案用紙を抱えてて二年一組の教室を出た。
もしかしたら、放課後3人からなにかとんでもない話を持ちかけられるかもしれないという予感を抱きながら、菅原は職員室に向かったのだった。
「はい、立原先生」
職員室に着いた菅原は答案用紙をすぐさま立原に手渡した。
「ありがとうございます。特に何もなかったですか?」
「ええ、いつも通りですね。何かあったほうが、こちらとしては面白いんですけどね」
冗談めかして言う菅原を立原が少し睨んだ。
「忙しいんですから、冗談は程々にして下さいよ。菅原先生。それから、一組の天原祭の写真ですけど、教師は焼き増したのめませんから」
「ええっ! そんな……」
しっかりチェック済みな所業に釘を刺されて、菅原は大げさにがっくりと肩を落として見せる。もちろん教師は焼き増しを頼めないという決まりはない。
ふざけてばかりいる菅原をいさめる方便だが、菅原の方もそれを承知の上で大仰に振る舞っている。
「お茶を入れてきますから、そんなこと言わないで下さいよ。立原先生」
「お茶菓子付きなら考えてもいいですよ」
「分かりました。手を打ちましょう。昨夜、作ったフィナンシェを持ってきています。特別にお分けしましょう」
菅原はごそごそと机の下から、ピクニックにでも行けそうな大きさのバスケットをとりだして笑った。
実を言えば、定期考査の最終日に菅原が手作りおやつを持参して、お茶と共に職員に振る舞うのはここ数年の恒例行事なのだ。中間考査の時は、特に手の込んだお菓子を用意してくる。
中間考査には家庭科は含まれない上、部活動もない菅原は、普段よりも早く仕事が終わるような状況なのだ。そんな理由で、菅原はバスケットを開いて立原にフィナンシェを二つ手渡した。
「今、お茶を入れてきますから」
菅原はそう言うと嬉々として給湯室に消えていった。
「不思議な人だ」
呟きに顔を向けると、いつの間に現れたのか、立原の目の前には津川光輝が立っていた。
「津川くん……、どうしたの?」
「いえ、たいした用事ではないのですが…、菅原先生に…」
「菅原先生?」
「はい。……お忙しそうなので出直してきます」
「すぐに戻ってくると思うけど…」
「やはり、出直します」
津川光輝は、引き止めようとする立原の言葉には耳をかさず、さっさと職員室から出て行ってしまう。
光輝が出ていって、いくらも経たないうちに菅原はトレイにたくさんの湯飲みやマグカップを乗せて戻ってきた。立原だけでなく他の職員の分のお茶も入れてきたようだ。
「どうかしましたか、立原先生」
立原愛用の大きなマグカップを手渡しながら、菅原は立原に訊ねる。
「津川が……」
「津川が来ましたか?」
「ええ、先生と入れ違いで」
「何か言ってましたか?」
試験監督中の津川たちの様子からすれば、あり得る話だ。
「また出直して来ると、言ってましたけど」
「そうですか」
「なんだか、いつもの津川らしくなかったけど、菅原先生は何か御存知なんですか?様子が変でしたけど」
副担任らしく、普段と違う生徒の様子に敏感に気が付いた立原が訊く。
「まあ、あの転校生たちはいつでも変ではあるでしよう」
「そうですけど」
「試験中、やけに僕のことを見てるなあとは思ってましたが、特に心当たりはないですね」
全く心当たりがないと言えば嘘になるかもしれないと、菅原は思った。
たぶん、郷田会長がわざわざ菅原と立原を呼びつけて話した特別事情というものに関係しているのではないかと思われたが、郷田からはあれっきり何の話もない。天原祭での音響トラブルの件もうやむやのままだ。これらに関係した相談なのではないかと予想している。
「とにかく、津川から何か相談された時はよろしくお願いします」
「分かりました。放課後にでも僕から話しかけてみます」
菅原の言葉を区切りにして、せっかく用意してきたお茶が冷めないうちに、職員室は全体的に休憩時間へと移行していったのだった。
定期試験が終わった日の放課後は、久々に賑やかな生徒の声が溢れて活き活きとした雰囲気が校内に満ちる。運動部も文化部も今日から部活が再開される。
菅原が顧問をしている手芸部と料理研究会の正式な活動開始日は明日からだったが、彼は家庭科教官室の鍵を持って職員室を出た。明日からの活動準備を名目にして、中間考査期間中はあまり利用できない菅原のお気に入り空間でのんびりしようという魂胆である。
調理実習室の奥にある家庭科教官室には、入り口が二つ有り、生徒たちは調理実習室の中にある入り口から出入りし、菅原はそれとは別の反対側の廊下に面した入り口を利用する。
菅原はいつものように廊下側の入り口の鍵を開けて中に入った。
調理実習室から数名の人の気配を感じた。
「ホントに大丈夫だと言いきれるの?」
「大丈夫だと思う」
何やら話をしている声が、家庭科教官室まで届いていた。向こうの方は、話に夢中になっているのか隣の部屋に入ってきた菅原には気付いていないようだった。
「協力者は多いほうが、情報も得やすいと思う」
「多すぎても、歴史に干渉しすぎることになるわ」
「歴史への干渉を問題にするなら、このプロジェクトは最初から行われなかったってことだろ。郷田さんにも相談してみたけど、菅原先生なら大丈夫だろうと言っていた」
菅原は突然自分の名前が出され驚きながらも、調理実習室にいる生徒の目星がつきはじめる。
「それなら立原先生にも話してもいいんじゃないの? 郷田さんは、あの二人をかなり評価しているわ」
「立原先生の前に菅原先生に話したほうがいいと思うんだ。彼女は二一世紀現在の理論に縛られている所がある。ぼくたちが秘密をうちあけたとき、その理論が邪魔をする可能性が高い」
「菅原先生にはそれがないというの?」
「ないとは言いきれないけど、少なくとも興味は持ってくれるだろう」
「興味? そんなもの持ってもらっても仕方がないんじゃない」
聞けば聞くほど理解に苦しむ会話だったが、彼らの話し合いは真剣そのものだということは菅原にも感じ取れた。
「仕方ないことよ。バカにされず、興味を持ってもらえるだけでも、わたしたちにとっては有益なことじゃないかしら、二六世紀から来たなんて言っても信じて貰えないのが普通というものでしょ」
二六世紀……?
そのあまりに現実離れした会話に、菅原は自分の耳を疑った。
彼らは何の話をしているんだ。
菅原は、気配を殺して調理実習室の会話に聞き耳を立てていたのも忘れて、胸ポケットからたばこを一本取りだし、百円ライターで火を付けた。
ライターの音は存外に大きく室内に響く。
調理実習室の会話が止まった。
「そこにいるのは誰だ!」
どうやら見つかってしまったらしい。
菅原は、たばこを深く吸い込んで一気に吐きだし、調理実習室に続く扉の鍵を開けた。扉を開いて彼らの前に姿を見せる。
驚きと戸惑いをにじませた八つの瞳が、菅原を見詰めていた。
「す、菅原先生……」
「詳しい話を聞かせてもらおうかな」
菅原はそれだけ口にすると、再びたばこを吸い込んで、煙を吐きながら教壇の椅子に腰掛けて、四人の生徒が口を開く瞬間をただ辛抱強く待ち続けたのだった。