蝉が鳴いている。
  真夏日が続いて、夜になっても湿気を含んだ空気が漂い、暑く寝苦しかった。異常気象が騒がれはじめて久しいが、毎年のように猛暑だ冷夏だと一時的な感心は引くものの、問題にされるのはビールとクーラーの売り上げばかりだ。
  パジャマ姿の理奈は、学園に隣接する学生寮の二階の窓から木立の並ぶ新鮮な風景を見ながらため息をついた。
  温暖化のことが心配され警告されているものの、この時代の人々には馬耳東風だった。排気ガスを吐いて走る車は気分が悪くなるほどに走っているし、オゾンホールが開いているとわかっていても海岸には水着姿の人々がひしめいていた。肌を黒く焼くことがファッションとして流行っていることも、理解に苦しむことだった。やがてはこの夏が夏ではなくなり、蝉の鳴き声も聞こえなくなるというのに……。
 「あの鳴き声の蝉って、なんだっけ?」
  誰にたずねるわけでもなく、彼女はいった。
 「たしか、アブラゼミよ。この時期におもに鳴いてるのは。初夏の頃はニイニイゼミ、秋口になるとツクツクホウシだったと思う」
  ベッドの縁に腰かけたのぞみが答えた。彼女は起きたばかりで、目頭を手でこすっている。
 「起こしちゃった?」
 「ううん。目は覚めてたの。というか、あまり眠れなかった」
  綾瀬理奈と桜井のぞみは、私立“聖天原学園中学校”の学生寮で、相部屋だった。男子寮には神崎達矢と津川光輝が、やはり相部屋となっていた。
 「あいつら、起きたかな?」
  理奈は窓から顔を出して男子寮を見る。
 「どうかしら? ふたりとも時間にはルーズだから、まだイビキかいて寝てると思うけど」
  のぞみはクスクスと笑い、あくびをしながらきく。
 「いまなん時?」
 「まだ六時よ。朝食まで時間があるわ。ね、外、歩かない?」
  ふたりは着替えを始める。
  彼らが二〇〇二年に無事着陸してから、三週間が経っていた。決死の覚悟のタイムトラベルだったが、その過程はあっけないものだった。
  時空確率転送機(ディメンジョン・プロパビリティ・テレプレゼンス)=通称DPTの球殻の中にはいり、小刻みに体を揺さぶられると同時に気を失った。気を失っている間に、彼らの肉体は量子レベルで分解され、存在の確率を変えられて、時間と空間を超えたのだ。厳密には超えたというのも正しくない。
  ただ、存在するべき時間と空間の座標が変更されたのだ。……二〇〇二年の時代と東京という場所に。
  失敗していれば、彼らは再び意識を取り戻すどころか、存在自体が消えていただろう。あるいは、予定された時代と場所ではなく、まったく未知の世界に飛ばされていたかもしれない。
  四人が目を開けたとき、そこには排気ガスと騒音が充満していた。倒れていた彼らは、人々に踏まれ、つまづかれた痛みで意識を取り戻した。
  出現したのは渋谷駅前の交差点のど真ん中だった。道路を横断する群衆から罵声を浴び、人の流れが過ぎ去ると、車のクラクションの洗礼を受けた。
  戸惑いながらも彼らは立ちあがり、安全だと思われる方向へと移動した。彼らには奇異の目が向けられていたが、彼ら自身が周囲の世界に驚きの目を向けていた。
  まず彼らが確認しようとしたのは、いまがいつかということだった。おどおどきょろきょろしながら、正確な年代を特定する表示を探す。
 「誰かにきけばいいじゃん」達矢はそっけなくいった。
  彼は近くの売店――それは宝くじ売り場だった――に歩みよった。
 「すみません。今日の日付を教えてください」
 「え? 一五日だよ。ほら、サマージャンボ発売中よ。どう?」売店の中年女性が答えた。
 「なん年のなん月?」達矢はさらにきく。
 「おかしな子だね。今年は平成一四年、今月は七月だよ」
  女性は怪訝な顔をした。彼の発音に英語なまりがあったことで、日本人ではないと思ったのだ。
 「平成一四年! ということは、二〇〇二年だ! やった! おれたちは成功したんだ!」
  歓喜する達矢は仲間のところへ戻ると情報を伝え、それをきいた彼らは飛びあがって喜んだ。周囲の人々は四人の騒ぎぶりにあきれた視線を向けながらも、関わりになることを避けるように無視した。
  そこへひとりの初老の男が近づく。恰幅のよい男の目は、達観したように鋭いものを秘めていた。
 「君たち、なにか困ったことはないかね?」
  突然の接触に、四人は警戒心を露わにした。
 「別になにも……。すみません、騒いじゃって……」達矢は言葉に詰まった。
  男は不自然な笑みを浮かべていた。
 「立ち話もなんだから、わしの車まで来てくれないか?」
  達矢は身構えた。
 「あんた、おれたちをどうするつもりだ?」
 「心配することはない。わしは君たちのことを知っている。二五九九年のことも、ディメンジョン・プロパビリティ・テレプレゼンスのことも。わしが君たちをサポートしよう」
  四人は驚きとともに逃げる態勢にはいった。
 「まてまて、信用しろといってもすぐには無理だろうが、君たちは孤立無援だ。ここから逃げてどこへ行くというのだね? わしの話だけでもきいてみてはどうだ?」
  理奈が一歩前へ出る。
 「そんなことできると思う? あたしたちには、あなたがなに者かのヒントもないのよ。そっちがあたしたちのことを知ってること自体、信用できないわ」
 「もっともだな。やはり、選抜されただけあってただの子供ではないようだ」
  男は四人それぞれに視線を向けた。
 「わしは、郷田義章。私立聖天原学園中学校の会長だ。君たちの受けいれ準備は整っている。この時代では、君たちは中学生だからな。学校も行かず、ぶらぶらしているわけにもいかないだろう?」
  彼らにとっては異世界の人間である周囲の人々の中で、郷田の存在は特別の意味を放っていた。四人は猜疑心を抱きつつも、郷田の申し入れを受けいれたのだった。
 「あれから三週間か……。学校はなれた?」理奈はのぞみにきいた。
  制服に着替えたふたりは、学校の敷地内にある寮と校舎を結ぶ小道を歩いていた。石畳の道の両脇にはポプラの木が並び、手入れの行き届いた芝生の中には花壇が点在している。
  郊外にある聖天原学園中学校は、緑に囲まれていた。
  心地よい植物の香りを含んだ空気を、のぞみは胸いっぱいに吸いこんだ。
 「ふぅ~、いい空気よね。地球の危機がウソみたい。学校はまぁまぁね。レベルが低いのがつまんないけど。あんなの十歳までにすることだもの」
  理奈は同意の印に肩をすくめた。
 「まぁね、彼らの人生は長いんだから。ゆっくりやってるのよ」
 「でも、学園生活は楽しいわ。こんなに遊んでていいのかって思っちゃう」
 「そうね。達矢と光輝のはしゃぎぶりにはあきれるわ。あたしたちの使命を忘れてるみたい」
 「それについては、ふたりだけを責められないわ。わたしも毎日が楽しいから」
 「特にランチタイムは楽しいわね。食べものも美味しいし」理奈は微笑んだ。
 「そうそう、バイオプラントの食べものとは比較にならないわね。わたし、ちょっと太ったみたい」のぞみはお腹をつまんだ。
 「のぞみも? あたしもよ。クラスメートの子たちがダイエットの話をしているのが、実感としてわかるわ。美味しいものが多すぎるのよね」
  ふたりは互いの顔を見て笑った。
  あどけない笑顔には、彼らの背負っている宿命の陰はなかった。同じ一四歳であっても、現代の一四歳とは意味も重さも違っている。しかし、ふたりはそのことを考えないようにしていた。いまのという時間を楽しむこと、そして周囲の環境に馴染むことが第一だったのだ。
  二六世紀末とはあまりに違う生活環境や風習、さらには言葉の使い方まで、実地に学ばなければならないことはたくさんあった。彼らが事前に学習した過去の歴史では曖昧な部分も多々あり、記録にも残っていなかった時代独特の空気があったのだ。
  彼らは帰国子女扱いで学校に編入された。それは不自然な行動や言葉のイントネーションの違いを説明するには、格好の理由だった。
  郷田の勧めではいった学校だったが、彼は謎の多い人物だった。なぜ彼らのことを知っていたのか、なぜ彼らの出現する場所と時間を知っていたのか、郷田は多くを語ろうとはしなかった。そのことは不信感にもなったが、利用できると四人は判断した。
  ひとつだけ郷田が明言したことは、彼ら四人が最初ではないということだった。以前に来た未来人がどうなったかについては、言葉を濁した。だが、想像はついた。十年前に来たのであれば、生きている可能性は低いからだ。
 「面白い授業とかある?」理奈は話題を変えた。
 「家庭科かな。先生が面白いし、けっこう好きだな。ときどきハチャメチャだけど」
 「ふ~ん。料理とかってすることなかったもんね。あたしは理科の立原先生が気になってる。だって、あの歳であんなに若々しくてセクシーなんだもの。信じられない。昔はあんなふうに歳を取ってたんだなって」
 「ほんと。ちょっとうらやましいね」のぞみはうなずいた。
  理奈とのぞみは、十年後の自分がどうなっているかは想像したくなかった。
  朝のすがすがしい空気は、日射を強めた太陽によって徐々にはぎ取られていく。蝉の鳴き声が一段と大きくなり、抜けるような青空にはまばらに白い雲が浮かんでいた。
  理奈は目を細めて天空を見あげる。
  青く塗られた空の向こうに、彼らの生まれ育ったコロニーはまだ存在しない。それでも郷愁を感じずにはいられなかった。決して楽園ではなかったが、彼女の故郷には違いないのだ。
 「ここは楽園ね」
  理奈はひとりごちた。
  その楽園が、束の間の世界であることを彼女は知っていた。見えていても、辿りつくこともつかむこともできない、虹のようなものだと。
  理奈はいまこうして生きていることの実感のなさに、我ながら驚いた。かといって、未来の世界でどれほどの実感があったのかも自信がなかった。
  たしかなことは、ここが二〇〇二年の夏であるということだった。空は澄み、空気は新鮮で、緑も多い。五感で感じる世界が現実なのだと、自分にいいきかせる。
  湿気を含んだ風が、理奈の長い髪をなびかせた。
 「今日も暑くなりそうね」
  ふたりは歩いてきた道を寮へと戻っていく。
  昨日と同じように始まる一日でも、昨日とは違う今日。その積み重ねで日々が月日となり、年月となっていく。些細な変化が未来を変えるのだ。
  彼女たちはそのことを誰よりも知っていた。