銀河の星々を映しだす天体測定ラボ――。
理科室はスタートレック・ボイジャーの天体測定ラボへと様変わりしている。ベニヤ板とダンボールと発泡スチロールを使い、天文部員の作った粗末なセットではあるが、雰囲気は出ていた。
窓には黒いカーテンが引かれ、照明は部分的に照らすひとつだけで室内は薄暗い。ホワイトボードはスクリーンの代用となり、スライドが宇宙の映像を投影していた。
立原美咲が扮するセブンは集まった人々の前に立って、澄ました顔を向ける。えんじ色のタイトなボディスーツにハイヒールを履き、髪をブロンドに染めた立原はセブンになりきっていた。普段はかけているメガネを、今日はコンタクトにしている。
「このように、我々の世界はいまや深刻な危機を迎えている。もはや手遅れという説もあるが、かといってなにもしないで未来を受けいれるというのは非論理的だ。なにごとにも解決策はあるはずだからだ。
ひとつだけ、個人的に強調しておきたいことがある。温暖化を阻止することは、地球のためではない。われわれ自身のためなのだ。地球は数万年、数百万年の単位でその生涯をたどっている。人間がいくら環境を汚染しようが、温暖化しようが、地球は痛くも痒くもない。なぜなら、原初の地球においては、生物など住めない汚染された星だったからだ。地球環境が破壊されて困るのは、地球ではなく人間なのだ。いわばわれわれは自殺しようとしているようなものである。環境保護という抽象的なことは理解できなくても、自殺をやめることは容易だろう」
立原はセブンのそっけない講義口調で、地球温暖化のプロセスを説明していた。話をきいていた生徒から「おー」と、感心する声がもれてきた。
セブンになりきることはそれほど難しいことではなかった。もとより、彼女の地に近かったからだ。いつもと大きく違うことといえば、ボディラインを強調する、衣装だけだった。ボディスーツを着たときには、恥ずかしさを覚えたものの、周囲の人々から好奇の目が注がれているうちに快感すら感じるようになっていた。
天原祭は土曜日の初日に続いて、日曜日の二日目に突入していた。お祭り騒ぎも二日続けば少々疲れるものだが、疲労感よりも高揚感の方が勝っていた。振り替え休日となる月曜日には、ドッと疲れが出て生徒も教員も怠惰な一日を過ごすことになるだろう。しかし祭りの最中は、脳内にアドレナリンとセロトニンが大量に分泌され、気分はハイになっている。
立原は一日目に行われた二年三組の演劇に触発される形で、セブンを演じる自分に酔いしれていた。演じるという行為は、内なる自分の解放でもあるからだ。彼女も天原祭を楽しんでいた。
天文部の部員は、艦隊士官のユニフォームを着て、それぞれに割り振られたキャラクターに扮している。その中に菅原もいた。菅原は目尻を下げて、立原=セブンを見つめていた。
だが、部員よりも観客の方が圧倒的に多かった。満員電車並の密度で人の頭が並び、立原に視線が集中している。
パンフレットには「セブン・オブ・ナインによる特別講義」と書かれていた。その講義を聴くために集まっているのだ。
立原は盛況ぶりに満足しながらも、普段の授業でもこれだけ熱心であればいいのにと思っていた。
「なにか質問は?」彼女は聴衆に向かって首を傾げた。
ザワザワと笑い声が沸いた。仕草と口調がセブンそっくりだからだ。
「先生! スリーサイズは?」
男子が質問した。同意を示す拍手と口笛が飛ぶ。
「その質問に答えるつもりはない。無意味だ」
再び笑いの渦。
「スタートレックの世界は実現するんでしょうか?」
別の男子生徒が質問を発した。
「不可能ではないだろう。理論的な思考実験では空間を光よりも速く移動する方法も提唱されている。技術的に可能になるには、大きな壁があるが、それはいまから五〇〇年前の人間に、現代のような世界が実現可能とは思えなかったであろうことと似ている。不可能を可能にするのが、人間ではないだろうか?」
「時間旅行についてはどう思う?」
質問をしたのは、最前列で椅子に腰かけているアンドルーだった。彼の隣には理奈がいた。
立原はしばしの間、アンドルーと理奈を交互に見た。
(今日のお相手は津川くんではないのね。うらやましいこと……)彼女は小さくため息をついた。
「いい質問だ。物理学者が提唱するワープ理論には、時間の要素もふくまれている。また、相対性理論では光速を越えることを容認していないが、超光速が可能であると示唆する研究もある。まったく不可能であるとする根拠は絶対的なものではない」
理奈は手を挙げて発言する。
「タイムパラドックスの問題は?」
「たしかに時間を移動する場合には、それは重要な問題だ。原因と結果は因果関係にあり、時間を移動するということは、因果律を崩してしまうことになる。ホーキング博士は時間順序保護仮説を唱えて、因果関係は保存されるといっている。現実的に考えれば、タイムトラベルは非常に困難であり、不可能に近いといえる」
「でも、人間は不可能を可能にするんでしょ?」理奈はさらに問いかける。
「そのとおりだ。私もまったく否定するつもりはない。だが、現時点ではタイムトラベルが実現可能であるとする理論はないといっているのだ」
「ボーグテクノロジーなら可能だね」菅原が口をはさんだ。
「その方面は彼の方が詳しい」
立原は自分の隣に右手を振って、菅原を招いた。菅原はいそいそと進みでて彼女の隣に並ぶ。彼は黒地に肩の赤いユニフォームを着て、額にはマジックで刺青を書いていた。副長を演じているのだ。
ふたりが並ぶと、生徒から冷やかしの野次が飛んだ。立原は憮然として平静を装っていたが、菅原は照れ笑いを浮かべていた。
菅原は咳払いをして口を開く。
「今回の天文部のテーマは、五百年後の地球ということだが、ボイジャーの世界は二四世紀の物語だ。二四世紀の時点でもタイムトラベルの技術は確立されていない。だが、二六世紀には可能となっているんだ。
時間とはなにか?……ということについては諸説あり、正確なことは未知の領域だ。なぜ時間の矢は、過去から未来に向かって飛んでいるのか? その逆はありえないのか? そもそも時間の道筋は一本なのか? 未来から過去に飛べたとして、パラドックスは生じないのか?
だれもその答を知らないのが現実だ。
そもそも我々にとって、時間とはなんだろう? そこには物理学的な問題と同時に、哲学的な問題も含まれている。過去があって現在があり、現在があって未来がある。それは因果律と呼ばれるものだ。一般的な解釈では、過去が原因であり未来が結果だ。だが、本当にそうだろうか?
結果が原因に影響を及ぼすことはあるのだろうか?
そう考える説もあるんだ」
菅原は聴衆の反応をうかがうように、左右を見渡した。
「たとえば、勉強すれば試験の結果がよくなる。この場合、勉強が原因で試験が結果だ。君たちは試験の結果を良くするために勉強をする。すると、未来の結果を予想して、勉強することになる。結果が原因に影響を及ぼしているわけだ。
別の例を挙げよう」
彼は両手を動かして、宙に厚みのある仮想の板状物体を描いた。
「これはガラスだ。ここに斜めに光が射しこむとする。どうなるかな? 君」
菅原は理奈を指さした。
「光はガラスで屈折します」
「そのとおりだ。では、なぜ屈折したのかな?」
「ガラスは光を屈折させる性質を持っているからです」
「なるほど、模範解答だね。だが、こういう考えかたもできる。
光は光速を維持したまま、短い距離で進もうとする性質がある。光がガラスの中を入った角度のまま直進すれば、スピードが遅くなりガラスという空間の中で長い距離を進むことになる。これでは光の性質に反することだ。したがって、光はなるべく速く短い距離を選んで直進しようとした。その結果が屈折とも考えられる。
このように原因と結果を捉えることを“目的因”というんだ。つまり、光はどういう方向に進めば最適であるかを知っているということだ」
立原はすかさず割ってはいる。
「菅原先生! そういう怪しげな説明をしないでください。生徒が混乱するでしょ」
「怪しげでもなんでもないよ。これはちゃんとした理論なんだ」
「それはわかりますが、中学生のレベルでは……」
「セブン、らしくない発言だぞ」
生徒の間に笑い声が上がった。
「ちょっとした実験をしてみよう。綾瀬くんとラザフォードくん、前に出てきてくれるかね?」
理奈とアンドルーは立ち上がって、菅原のそばまで歩みよった。
「セブンもこちらに。僕の右にセブン、左にラザフォードくん、セブンの隣に綾瀬くん。手をつないで輪になってくれ」
四人はそれぞれに手をつないで、輪を形成する。
「もっと広がって、腕を伸ばして」
四人の輪は大きくなり、腕はほぼ水平になった。
「これは時間のあるモデルを意味している。従来からの考えかたでは、時間は永遠の過去から永遠の未来に続く直線だとされている。だが、時間が輪になっているというのがこのモデルだ。
僕を基準にすると、ラザフォードくんは過去の僕で、セブンは未来の僕だ。綾瀬くんから見ると、セブンが過去でラザフォードくんが未来だ。まぁ、向きはどちらでもいいんだけどね。
つまり、時間が輪になっている場合には、未来に向かっているつもりでも、ぐるりと回って過去に辿りつくんだ。このモデルの場合、過去と未来はごく近い範囲でしか意味がないことになる。遠い未来は遠い過去とつながっているんだ。
どこが現在であるかは、それぞれの四人の立場で違ってくる。僕にとっては僕が現在であり、綾瀬くんにとっては綾瀬くんが現在だからだ。そして、それぞれの関係はつながっているから、僕がこうして……」
菅原は右手を引いた。立原は引かれて彼の方へと体を傾ける。さらに立原に引っぱられて綾瀬とアンドルーも体を動かした。
「というふうに、未来と過去に同時に影響を及ぼすんだ。未来が過去に干渉することは可能だということだ。
この時間の輪を発展させたのが、ゲーデルの宇宙で――」
「ストップ! 話が飛躍し過ぎよ、菅原先生」
「おっと、失礼。調子に乗りすぎましたか?」
理奈とアンドルーは、感心して菅原を見つめていた。時間移動の基本をついた理論を展開していたからだ。
(驚いた。菅原先生なら、あたしたちのことを知っても大丈夫かも)理奈は思った。
アンドルーが口を開く。
「なかなかいい線いってるよ、先生。では、五〇〇年後の未来が、破局的な状態になっているとして、過去に戻って歴史を修正することは可能だろうか?」
「むむ……、それはなんともいえないな。どれだけの修正を加えるかにもよると思うよ。時間旅行が可能であれば、すでに過去に干渉していることになるが、大海に一滴の水を落としても、その影響は呑みこまれてしまって変化は微々たるものになってしまうからね」
「効果的な修正ができるとしたら?」
「そうだなー、歴史には大きな分岐点がある。その分岐点に対して修正を加えれば、大海全体にも変化をもたらすだろうと思う」
「もう、手を離してもいいかしら?」立原がいった。
「ああ……、いいよ」菅原は残念そうに答えた。
立原と菅原は握っていた手を離したが、理奈とアンドルーは手をつないだままだった。
「さて、予定時間をオーバーしてしまった。私の講義はこれまでだ」立原はセブンの口調に戻っていった。
生徒たちからは「えー」と、不満の声が上がった。
そこへ、軽快な音楽とともに、スピーカーから校内放送が流れる。
「毎度お騒がせ! 放送部制作の天原祭特別番組で~す」
「はいはい、天原ステーション特別編・第三部は、三年生コンビ――」
「ヒカル」
「あゆみ、がお届けします!」
「うちらにとっては、最後の天原祭。トリをビシッと決めまっせ!」
「なんで、関西弁やねん?」
「そういうおはんこそ、いかがわしい関西弁やで」
「無茶苦茶やな。鹿児島弁も混じっとるやんか。あんた、地がでとんで~」
「ゴホンッ。え~、気を取り直して、皆さんが注目しているであろう……」
「そうそう、例のアレね」
「アレ、アレ」
「最終候補、決まりはったんか?」
「そやねん。しかし、今回は激戦が予想されますね。昨年まで三年間に渡って、マリアの座を守ってきた高原涼子先輩が卒業してしまったために、新人が多く名前を連ねているとのことです」
「じらさんと、はよ発表せーや」
「まだや。美味しいところは最後に残すもんやさかい。まずは初めての方のために、お約束の説明を。あゆみちゃん」
「おまかせ。天原祭では、二日目の最後のイベントとして、ミス・マリア・コンテストが行われます。これは天原祭の二日間に投票を実施し、得票数の多い女生徒を、ミス・マリア候補としてリストアップします。そして、これから始まる最終選考で、ミス・マリアが決定されます。トップの栄冠に輝いた人には、マリア賞。二位と三位には準マリア賞が贈られます。そして、マリアに選ばれた生徒には、今後一年間、さまざまな学校イベントやミサにおいて、重要な役割を担ってもらいます。つまり、天原学園の顔になるわけです」
「う~ん、名誉なことですね」
「そうそう。だれもがなれるものではないからね。美しくて、清純で、聡明な女性に与えられるものよ」
「がははは。うちらみたいな下品な人間には、縁遠い世界だわ」
「心配せんでもええがな。わたしもあんたも予選で砕け散ったわ」
「というと、いちおう票ははいってたん?」
「それはきくな! 情けなくなる」
「新しいマリアは、だれでしょうね~。ヒカルちゃん、はよ~知りたいわ」
「えへへへ。ここに封をした封筒があります。この中に、名前が書かれているのだ!」
「生唾、ゴックン……」
しばしの沈黙。カサカサと紙を開く音。
「おおおお――とっ!」
「どうしたん? ヒカルちゃん」
「これはこれは……。予想屋も裏切る、驚きの候補者リストだねー」
「ちょっと見せてみー」
再び沈黙。
「あちゃー! これは意外というか、こんなことは初めてかも」
「だろうだろう?」
放送を聴いている生徒から野次が飛ぶ。
「さっさと、発表しろ~!」
「おっとと、部長から早くやれという指示が飛んできました。では、最終選考に残った人を発表します! あゆみちゃんから」
「まずは、一年生から。一年一組の宮下琴美さん。一年二組の南沢果穂さん」
「続いて、二年生。二年一組の綾瀬理奈さんとジャネット・リーガンさん。二年二組の御子芝樹さん。二年三組の桜井のぞみさん、二年四組のキャサリン・シンクレアさん」
「三年生は、三年二組の渡夏海さん、三年三組の西山香織さん。西山さんは昨年の準マリアですから、連続ノミネートとなります」
「そしてそして、なんと立原美咲先生もリストアップされています! これはありなんですか?」
「いちおうミスですから、立原先生は独身ですし、いいんじゃないでしょうか?」
「なるほど、とにかく激戦ですね。最終候補でこれだけ残るとは!」
「しかも新入生と転校生が大半というのも、意外でしたね」
「新しい物好きというか、印象が新鮮なんですかね?」
「さてさて、候補は以上ですが、決選投票は、午後二時三〇分から第一体育館で公開投票されます。候補として名前を呼ばれた人は、二時までに体育館控え室に集合してください。あと……十五分後ですね。」
「手の空いてる生徒も、全員第一体育館に集合よ! 投票には携帯電話を使うからね。忘れないように!」
「いざ、マリアのもとへ!」
放送が終わると、拍手が沸き上がった。
ミス・マリア候補の理奈と立原がいたからだ。
「綾瀬さんに一票!」
「立原先生に入れるぞ!」
「おまえ年上好みか?」
「やっぱ、初々しい一年の南沢だぜ」
生徒たちは口々に候補者の名前をいいながら、ぞろぞろと理科室を出ていく。
「どうしよう……」
立原は戸惑っていた。生徒だけが対象と思っていたミス・マリアに、自分が入ることなど想像もしていなかったのだ。
菅原はうれしそうにしていた。
「僕は立原先生に投票しますよ!」
「あ……、ありがとう……」
反射的に答えた彼女だったが、ありがとうといった自分にも驚いていた。
「行きましょう! 先生」菅原は立原の背中を軽く叩いた。
「行くって……、この格好のまま?」
「別にいいじゃないですか? 魅力的ですよ。十五分じゃ着替えてる暇もないし」
躊躇している立原は、浮かれている菅原に押されるようにして理科室を出ていくのだった。