綾瀬理奈はつと躊躇った。
手をいちど引っ込め、……しかしややあって再び手をドアへ差しのべる。
その部屋つまり十四号室は、彼女たちが暮らす聖天原学園女子寮A棟の真ん中に位置しながら、長らく空き部屋であった。
というのも、二十年ほど前のこと、この部屋にいた学生が不慮の事故により命を失うという事件があり、以来新たな住人が入るたびに、不幸な出来事に遭う……という噂が絶えなかったせいだ。
ある者は原因不明の病を得て入院し、またある者は階段を踏み外して大怪我を負い、かつまたある者は実家が破産し、一家離散の憂き目をみた……という。
それらはけっして信憑性ある話ではなかったけれど、じっさい学生たちはこの部屋を用いることをいとい、また学園側も無理に生徒を割り振ることはなかった。
十四号室は、いわば女子寮の『聖域』として、長いあいだ放置されてきたのである。
ところが現在の入居者は、くだんの噂をはばかるどころか、
――ひとり部屋のほうが気楽ゆえ。
という、ただそれだけの理由で、この部屋をねぐらにすることを決めた。
――『たたり』が怖くはないの?
と驚きまた感心する他の生徒らに、彼女はさして誇るふうでもなくいった。
――そもそも、たたりとか呪いといったものに『感応』し、その影響を受ける人々は、おしなべて感受性がつよいものだ。かれらは提供された『反射物』としてのたたりとか呪いに自分自身の感性を投影し、みずからの手でそれを実効たらしめてしまう。そこへゆくと、私のようにどうにも不粋な人間は、そうした反射物に対してきわめて鈍感だ。それだけのことであり、さほど誇ることではないよ。
十四歳の少女としてはいささか大人びた、というよりは老成した見解であったが、ひとは彼女が外国育ちという触れ込みであることから、なんとなく納得することにした。
それが実際は、見かけからは想像もつかぬ数奇な体験によってつちかわれた他に例をみない独特の性質のあらわれである、と知っている者はごくわずかにすぎぬ。
その数少ないひとりである理奈は、この個性の持ち主に敬意と好感をいだいてはいたが、また同時にすくなからぬ負の感情を抱いてもいた。それは無自覚的なものであり、それゆえにいっそう深刻なものでもあったのだけれど。
そしていま理奈は、ひとつの決意を秘め、彼女を訪ねようとしている。
なおしばらく躊躇ったすえ、彼女はノックとともに住人の名を呼んだ。
「……御子芝さん、起きてる? 綾瀬だけど」
「ああ。何だ?」
「ちょっと、話があるんだけど……いい? 大事な、話なんだけど」
かまわんよ、との返事に、理奈はドアを開き……
「!」
そのまま、絶句した。
床いちめんに広げられた布の上に、数知れない金属製の物体が並べられている。
それは瞬時に、刃物、飛び道具のたぐいだと見て取れた。
日本刀、脇差、手裏剣、暗殺用器具……銃器などは見当たらないが、それでもこの時代の『護身用武器』の域を超えた品々であることは一見して明らかだった。
物心ついたころから武器の取り扱いにかんしてはさまざまな訓練を受けてきている理奈だが、二一世紀に来てからこれほどの武装を見たことはない。
あっけにとられている理奈とは対照的に、部屋の主は涼しい顔で太刀を分解し、手入れをほどこしている最中だった。その手を休めることなく、
「すまんが、閉めてくれるか? さすがに、他の生徒に見られるのは不都合なのでな」
言われて、あわてて後ろ手に扉を閉める。と同時に、言葉が口をついて出た。
「こっ、これ、何?!」
理奈にしてみれば当然の疑問だったが、御子芝は彼女が指差す武器の数々を一瞥し、不審げに問い返した。
「見てのとおり、得物だが」
「それっ……それはわかるけどっ。いや、そのええと」
理奈は頭をかかえ、うずくまった。これも一種のジェネレーション・ギャップということになるのだろうか、などとムダなことは考えず、混乱した思考をまとめることに専念する。
「うん。えーっと、いくつか聞きたいことはあるけどとにかく順を追うことにするわ」
「そうしてくれると」太刀を組み立て直しながら、御子芝。「ありがたいな」
「じゃあ……まず質問その一。これって……本物?」
「いかさま」
「……質問その二。どこから、どうやって、調達してきたの?」
「話せば長くなるが、かまわぬかね?」
「……どれくらい?」
「さわりだけでも小一時間、というところか」
「……じゃいいわ。そして質問その三.……これ、どうするの?」
ぱちり、と鞘に太刀をおさめ、御子芝樹は静かにいった。
「持って行くのさ。置いていくわけにもいくまい?」
「やあ、アンディ」
その声は、すぐ背後からだった。
アンドルー・ラザフォードは、びくりと身を震わせ、周囲をうかがった。
ふいに思い立った夜歩きのさなか、学園の裏手の林のなかをうろついていたおりである。
だが、たとえば宿直の教師であるにしては、声がいささか若いようだった。
しかし彼は相応に注意をはらって歩いていたのであり、にもかかわらず背後をとられ、かつ、かなりの接近を許していたことに、驚いていた。
「――誰だ?」
声を、荒げていた。それは相手に対してというより、自身のうかつさに対する憤りが大きい。
「――そう、大声を出さなくてもいい」
含み笑いととも、月明かりのなかに人影が浮かぶ。黒髪の少年。
見たところアンドルーと同程度の年代と思われた。見かけ華奢なつくりだが、そのまなざしには印象的な力がある。
面識はなかったが、彼はこの人物を知っている。――
「……高千穂、涼か」
少年はククッ、と喉の奥から搾り出したような声で笑った。それにともなって浮かんだ笑みは、不敵とも邪悪ともつかぬ妖しいもの。その視線は少年にしては深い……それも棲んだ湖などではなく、濁りよどんだ沼のような、深さ。
(……厭な、男だ)
直感的に、アンドルーはそう思った。
高千穂の『経歴』は心得ている。その数奇きわまる体験ゆえに、常人とは隔離した性質の持ち主であるジャンパーだと。
常人ばなれ、ということであれば、アンドルーも、また彼の仲間たちもおさおさ劣るものではない(なにしろ、二六世紀人だ)が、おなじジャンパーでも、この男は決定的に異質だ、と。
(――御子芝樹とは大違いだな)
やはり面識こそないが、同じ境遇の御子芝に対してはアンドルーはけして悪感情を抱いてはいない。それはフェミニズムとはおよそ無縁なことであって――もっと本質的な、人間性の問題だ。
(彼女は信用できる)
(だが、この男は……)
つかみどころがない。得体が知れない、といってもいい。
彼は相棒のゲーリーや、綾瀬チームでいえば神崎のような、わかりやすい人間を好むところがあった。
それはけっきょく、一種の近親憎悪でもあったが――ともあれ、彼は不快感を隠しもせず、いった。
「なにが、おかしい?」
「いや、別に。……声をかけただけでそう怖がることもなかろうと思ってねぇ」
思い出し笑いをこらえるふうな高千穂に、アンドルーは怒気をぶつけた。
「なんだと。……オレが怖がっていたというのかッ?」
「ああ……そういう表現がお嫌いなら、怖じていた、とでも言い換えようか」
「貴様ッ」
拳を握り締めた彼に、高千穂はおやおやと言いたそうに肩をすくめる。
「ムキになるなよ、アンディ。リーダーには冷静さが不可欠だぜ?」
「余計な……っ」
お世話だ、と言いかけて、アンドルーは口をつぐんだ。
――というのも、彼が寮を抜け出し、こうして出歩いていたのは、べつだん月夜のそぞろ歩きに興をぼおえたからではない。
チームのリーダーとしての責務。……それを、最近の彼はとみに痛感するようになっている。
やるべきことは多数ある。しかし、そのために残された時間はわずかだ。彼らは、進むべき道、とるべき行動を選択せねばならない。……そして、『もう一度』はない。
決断。それはもちろん、チームの面々それぞれが考え、またともに検討すべきことではあるけれど、最終的な決断は――リーダーに託されるだろう。
重い、決断。
その重さ、心にのしかかるプレッシャーからをほんの少しでも逃れたくて、彼は夜歩きをしていたのだった。
それを察知されたのかと思い……アンドルーは思わず、高千穂の顔を睨みつけた。
彼の眼光につらぬかれてもいっこう悠揚せまらず、少年はフフ、とほほ笑んで
「ま、……気持ちはわかる。きみのように頭の切れる、しかし図太さに欠けた人間が指導者を努めようとすれば、否応なく、窮する。まして若ければなおのこと」
利いた風な口を、と思いつつも、アンドルーは内心なかばは同意している自分に気付いていた。
「若さは無条件の活力と希望を保証する……が、それらは要求しなければ手に入らぬし、手に入れなくとものちのち請求だけはしっかりされる。面倒なものだねぇ」
アンドルーは首を振った。これ以上、この男の話を聞いていると、いらぬ影響を受けそうだった。
「……言いたいことはそれだけか? あいにく、オレも暇じゃない」
言って、きびすを返した彼の背に、高千穂の声が聞こえた。
「――綾瀬理奈は」
「……なに?」
足を止めた。続く、高千穂の声。
「彼女の、リーダーとしての資質は……どうだろうな」
アンドルーに聞かせるようでも、独り言でもあるような口調。
「それは今夜、明らかになるだろうね――」
「……ここを、出る!?」
綾瀬理奈は、今夜何度めかの絶句をした。
ああ、と御子芝は淡々と答えた。受け答えのあいだも、装備を次々リュックに放りこんでいる。
「郷田氏には、話をつけてある。しばらく休学、という形になるだろう」
「で、でも、どうして!?」
「ああ、出る、という言い方は妥当ではなかったかもしれんな。むしろ、潜る、というべきかもしれない」
「……潜る?」
そうだ、と御子芝。「私は地下に潜む。お前たちの使命を、陰ながらサポートすることになるだろう」
「どうしてそんな、……あ」
言いさして、理奈は思い当たるところがあった。以前御子芝に聴いた『M.E.G』なる結社。その調査だと言うのか。
「そうだな……だが……」
御子芝は言葉をにごす。「たしかに『M.E.G』は気になっている。しかし……」
「しかし?」
いや、と御子芝は明言をさけた。「まだ確証はない。いわば、予感にすぎない……が、あいにく私の悪い予感はよく当たるのだこれが」
「そんな、けど……」
「ああ、心配はいらん。潜伏場所もちゃんと調達してある」
「いや、そうじゃなくて……」
「連絡方法については、いずれ――」
「……ねえッ!!」
突然怒気混じりの声を浴びせられ、さすがに御子芝も手を止めた。
審げな目で見つめられた理奈は、ふいに冷静さを取り戻し、……うつむいた。
「ご、ごめんなさい。……大声、出して」
「らしくもないな」
御子芝は立ち上がり、理奈の肩をに手を置いた。その細い肩は小刻みに震え、いかにも頼りなげだ。
右手どうしが重なる。理奈の手。それもまた、弱々しく力なく。
「事前に相談しなかったのは、悪かったと思っている。しかし――」
そうじゃない、とか細い声。「そんなことは……いいんだけど。でも……あたしは……」
「ああ、話があると言っていたな。……何だ?」
理奈は答えず、右手に力をこめた。うかがえるのは、……迷い。
「綾瀬、悩みごとなら……」
理奈は手をひいた。そして顔をあげると、
「……ううん、いいや。やっぱりっ」
言って、ほほ笑んだ。
「――のぞみたちには?」
学園裏手の林。そこに理奈と旅支度の御子芝はいた。
「永久の別れというわけではない。かまうまいよ」
「そうね……」
笑顔をつくりつつも理奈は、もう二度と会えないかもしれない、という予感をいだいていた。
「ああそうだ。……忘れるところだった」
御子芝はポケットから文庫本を取り出すと、理奈に手渡した。「桜井に借りていたものだ。悪いが、返しておいてくれ」
「いいけど……何の本?」
御子芝は仏頂面で答えた。「……料理の本だが、私には高度すぎて役にたたなかった」
理奈はすこし笑った。
「そうそう……神崎には、日ごろの修練を怠るなと伝えてくれ」
「わかった。……達矢には?」
「……なにごともほどほどにしておけ、というところだな」
わかり辛い言い方だが、言わんとするところはわかった。
「さて……では、そろそろ行くとしよう」
理奈はうなずくのを見て、御子芝は振り返った。
「なぁ、綾瀬――」
「え?」
背を向けたまま、御子芝は続けた。「リーダーというのは、責ばかり大きく、いいことのないものだ。だが……なくてはならぬものでもある」
「…………っ」
「私は、かつて一度もそうした責を負ったことがない。私には……未来が視えぬからな」
「未来……?」
「そうだ。異なる人々をまとめ、導き、その力を出しきらせる者は、未来を視ねばならぬ。未だ視えぬ明日をあるべき姿へたどりつかせるためには、それは欠かせぬこと……」
「そんな……そんなこと、あたしにだって――」
できるさ、と御子芝はいった。ひどく、おだやかな口調で。
「お前はけっして強くはない。そして、図太くもない。むしろ繊細で、傷つきやすいほうだろう。だが……なればこそ、リーダーの資質があるともいえる」
人の痛みを想像できぬ者、感性のにぶい者は向いていないのさ、と付け加える。
「すくなくとも私は……お前を、リーダーと仰いでいるよ」
理奈は、息をのんだ。
「だから、もしお前が、やはり行くな、ここに残れと言うのなら……従おう」
「え……っ」
「どうする?」
理奈は月明かりの下、立ち尽くしていた。それは、酷な、選択。
ぎゅっと閉じられた目蓋が、かすかに揺れた。……
「御子芝さん……」
「うむ?」
「また、会えるときまで」
ふ、と御子芝はほほ笑んだ。――顔は見えなかったが、理奈はそう、信じた。
「そうだな。また会えるときまで。……しばしの別れだ」
御子芝は歩き出した。「いざさらば! お前たちの行く手に、胡蝶が幸を運ぶように――」
遠ざかる別れの声を、綾瀬理奈は目を閉じたまま聞いていた。
もう少しだけ――闇の中で。
「資質、か。耳の痛いことよ」
高千穂の苦笑いを横目に、アンドルーは理奈の姿を見やった。
その立ち姿はとても可憐で……しかし、ある種の威厳をも、感じさせた。
――未来を視る、か。
アンドルーは心中でその言葉を繰り返した。未来。創るべき未来。
――オレにも、視えるのか。
いや、視なくてはならぬ。リーダーとして起つならば。そこから、逃げないのなら。
(最後に選ばれるのは、どちらの視る未来かな)
理奈から目をそらしたアンドルーは、高千穂が寮とは逆の方向へ歩き出したのに気付いた。
「……どこへ?」
見れば、いつの間にかリュックを担いでおり、すっかり旅支度だ。
「あんたも……?」
「ま、そんなふうなところだ」
高千穂はククッと笑い声をあげると、歩みを止めることなく、闇に消えた。
(奴は……オレを導いたというのか?)
釈然としないまま、いちど首を振ったアンドルーは寮に向け歩き出した。
そのときふいに、林の奥から声が届いた。
「まァがんばることだな、アンディ。きみたちにもまだ勝算は残っている」
(やはり厭な奴だ)
アンドルーは、苦りきった。
足を止めた。
眼前の暗がり。気配が、あった。
「あなたがたは」澄んだ声。
「『警告者』さなくば『助力者』であるべきなのです。この時代のことは、この時代の人間にまかせなくては、いけないのです。未来は、与えられるものではないのですから」
「たとえそれが――」腰のものに手を伸ばしつつ、御子芝。「破滅へいたる道だとしても?」
「それがひとびとの選んだ道ならば――それがさだめ」
「悪いが」御子芝はほほ笑みつつ、鯉口を切った。「その『さだめ』というやつが、私は大の苦手でな」
「聞き分けのないこと――」
跳んだ。
(さあ――)
抜刀していた。
(――未来を、視にいこうか)
銀光に映えた月影が、一閃した。